(2455)トロピカルフルーツ

 トロピカルフルーツが近くのスーパーにも出回っています。しかも国産の柑橘類やリンゴなどより安く。私の小さい頃は台湾バナナかパイナップルぐらいしか見たことがなかったのに。あの頃はバナナの輸入業者は大もうけをしたといいます。パイナップルも真ん中をくり抜いた輪切りのものしか知らず、原型を知ったのはかなり後のことだったと思います。

 パパイヤやココナッツの味を知ったのは初めての海外旅行、フィリピンに行った時。パパイヤ、マンゴーなど幾種類かの名は聞き知っていましたが食べたことがありません。現地で現物を見てもそれがなんなのかもわかりません。

 勤務明けのホテルマンと彼らの行きつけの店に往き、フルーツサラダを食べても食材の名はわかりません。説明されても初めて聞くような名で結局覚えられずに。今だったらスマホに記録できたのでしょうがその頃はまだ。

 幼い頃からバナナは比較的手に入りやすかったのか、戦争が激化するまでは再三口にした果物です。甘くて健康にもいいとよく両親が食べさせてくれました。お祭りの時にはテキ屋がバナナのたたき売りを見せていましたが、私がいつどこでそれを始めて目にしたのかの記憶が飛んでいます。戦中だったのか戦後なのか。

 映画の寅次郎シリーズでもバナナのたたき売り場面がありましたが、お祭り、テキ屋、バナナはまさに三題噺のようにくっついています。子供時代から眺めるだけだった私もサラリーマンになってどこかのパーティに招かれ、余興に出たたたき売りの声に乗せられつい声を出し、一房買わされてしまった経験があります。

 今から考えれば高い買い物、しかしあの時は時価より安く買ったと思っていたのに帰宅して家内から叱責を受けたことがありました。12,3本一房1000円から始まり500円で落としたような記憶が。今だったらスーパーでも300~500円ぐらいで出ているのに。

 そういえばパイナップルも同じ程度。国内で採れた果実より輸入した果実の方が安いとは。テキ屋の出番はなくなってしまいました。

(2454)感動の逆転優勝

 小さい時から体操嫌いでした。学校の体育の時間はなんとかしてサボりたいという気があったのは、小学校入学前から病弱のため病院通いが続いたせいかもしれません。病院に行かねばと早引きをさせられたり、校医からも水泳は危険とみんなの衣服番をさせられたりという有様でしたから。

 今の学校のようにプールなんていうものはありません。湖が近いこともありその水泳場で泳ぐのです。もちろん脱衣場はありませんから砂浜でふんどしに替えて衣類は砂浜に。病気などで泳げない生徒はその監視役。

 疎開先は山の中の学校でしたが山を下れば大きな川がありそこが水泳場です。山の空気がよかったのか健康は取り戻しましたが、泳ぎ方を習っていませんからこれも嫌いになりました。相撲好きの先生だったため、夏以外の体操時間は相撲ばかり。小さい時から田舎で育った人相手に体力がない都会人間は勝負になりません。投げられて痛い思いをするより初めから負けに出ました。

 それほど自分でやるのが嫌いでも見て楽しいスポーツはよく見るようになりました。水泳は古橋、橋爪が活躍した頃彼らが出場する大会を大阪扇町に出来たプールに。相撲の中継放送も時間があれば。白井が活躍したボクシングもラジオ中継を。

 今でも相撲中継は欠かさず見ています。もっとも時間の関係で終盤の取り組みだけですが。

 それにしても頑張りましたね。大阪場所での新横綱稀勢の里。日馬富士との対戦で肩を痛めたときはもうこれまで、来場所に備えて休養すればと思ったのですが、翌日出場すると聞き無理をして悪化させないでと願いました。

 2敗で迎えた千秋楽、相手は今場所好調の照の富士。本割りで勝ってもう一度決勝戦で。相手より不利な立場です。かつて怪我を押して優勝を決めたものの、その無理がたたった貴乃花を思い出しました。

 それが意外な展開、本割り、決勝戦と見事な連勝。この取り組みを見た人たちに「諦めない」という意味を教えてくれました。20年以上前の表彰式で「感動した」と叫んだ、時の小泉首相の姿が重なりました。

 久しぶりです。これほどの感動を味わったのは。本当に勝負は終わってみなければわからないもの。

 それ以外にも大関復帰が叶わなかった琴奨菊のねばり、兄弟子の大活躍に習ったような弟弟子高安の奮闘。多くの教訓を垂れた大阪場所でした。この上は本場所で稀勢の里と高安の取り組みを見てみたいものです。

(2453)阪堺線

 南大阪と堺を結ぶ電車、阪堺線は懐かしい乗り物です。母が通天閣の近くに店を持ったとき、恵美須町から浜寺公園に行く電車をたびたび見に行ったものでした。天王寺駅前からも同じ車両が堺方面に向かって走っていましたが、恵美須町側が俗にいえば本線でした。

 というのも最近、何かの雑誌で阪堺線を取り上げていたので急に懐かしさがこみ上げてきたのです。記事によれば今は天王寺駅前から浜寺駅前に行く線が本線で恵美須町からは天王寺からの線と接続するところまでの支線のようになっているとか。しかし路面部分はそのまま残されているというようなこと。

 たまに母の店に行ったときに見る程度で乗った記憶が残っていません。むしろ天王寺駅前からの電車のほうに乗車した記憶があるのは、大阪市電と連絡する停留所があったからだと思います。

 そういう電車でも恵美須町から浜寺駅前まで、通して乗ったのが一度だけ。母の店は梅田に移っており、私も疎開先から大阪に住まいを移していました。確か夏休みの時だと思いますが、夏の暑い日に梅田の店に行くと店の女性に海水浴に連れて行ってやれという話になりました。

 当時は浜寺海水浴場があり、阪堺線で行けば1時間ぐらいで行けたでしょうか。海があるのに海水浴場があまりない大阪の街、海水浴は浜寺か須磨あたりに行かねばなりません。というわけで浜寺へ。

 今ではここも泳げなくなっているとか。東京も近くに泳げるところがなくなっていますが、工場進出に押され水泳場所が確保できなくなったと感じます。海がありながらプールで泳ぐ、健康的なのかそうでないのか。わかりにくい時代です。 

 阪堺線の今昔といった記事からそんなことを考えるのでした。

(2452)法律の数

 国会開会の度に新しい法律が出来ます。立法府たる国会はいつも新しい法律や手直しをしていなければ、選民からとやかく言われるのだからこれも仕事。その苦労はよくわかります。

 それにしても集団生活を営む我々国民は、自分たちの生活環境をよくするため我々のために働いてくれる人を立て、自分たちの本業に精を出すというのが本来の姿。法律もその目的に適うものであってほしいものです。いつの世でも自分たちの首を絞めるような法律はなくなってほしいものです。

 しかし毎国会の度に生まれる法律、一国会でどれぐらいの数が生まれているのか数えたことがありませんが、現在有効な法律の数は一体いくつあるのでしょう。学生時代に習った教科書の六法全書。そこに掲載されているのは憲法を初めとする代表的なものだけというのは、この本を手にして始めて知ったことでした。

 こうした法律をすべて知悉しているのかどうかわかりませんが、こうした法を遵守し、また取り締まる関係者の苦労は大変なものだと同情したくなります。恐らく作る側でもよくわかっていないのでしょうから。

 議員さんでも法案を考えているうち、すでに似た法律が存在すると知らされた人がいるというくらいですから。類似した法律が出てきたときには著作権なんてものが問題にならないのか気になるところです。

(2451)寂しさ感じさせる桜の花

 新しいアメリカ大統領がアメリカがナンバーワンでなければならないと宣告したのはそれでよいでしょう。誰しも自国が一番というのは当然。一方ではアメリカがナンバーワンになるよう力を貸すお人好しはいないと思います。

 しかし世界一になるため戦争は必要、核兵器を持たねばというのはちょっと意味が違うような気がします。

 私が進学した尋常小学校1年から卒業した国民学校6年まで、戦火厳しい時代でした。報道は国営放送、新聞は報道統制で大本営発表を報じるのみ。短波放送の聴取はとんでもないという時。正しい情報は与えられません。

 今になってあの時の報道姿勢がよかったのかどうかと検証する記事が出ますが、当時は恐らくそういうことは許されなかったと思います。洗脳された国民は自分の意見を持てなかったのですから。

 3月も後半、桜の開花予想で紙面もテレビも賑やか。桜といえば連想するのが特攻隊。もちろん当時は特攻隊という言葉を知っていたのかどうかはっきりしません。ただ思い出すのはあの頃の教育。

 教練で体力作りを強制されました。今でも体育作りは重要な教育の基幹になっています。しかし健康保険の世話にならない体を作らせようとする現在のそれと違い、軍隊に送り込むための体力作りでした。

 春になれば校庭に咲く桜を見て「おまえ達もあの桜の花のように、お国のため潔く散る覚悟を持て」と躾けられたものでした。終戦間近、連日のように英霊が収められた白木の箱が帰るようになっても、先生が言うことは変わりません。

 数年前、特攻隊が出発していったという知覧を訪れ、記念館の周囲に植えられた山桜の木を見たときも、戦争当時を思い出していたのでした。どういうわけかこういう時の桜はみんな山桜。

 同じ桜でも八重桜のように賑やかなものだったら思いが違っていたかもしれません。命短し桜の花。それがあの頃の若い軍人を表現するのにぴったり合っていたのか。東風ふかば匂いよこせと言われた梅。

 春を謳歌するはずの桜や梅。どうして寂しいものに感じさせるのでしょう。

(2450)思い出の小説

 私たちが教わった桃太郎や花咲かじじいほどにも有名というのに未読、「あしながおじさん」です。孫が読んでいるのを見て自分も知っておかねばと文庫本を買いました。奥付を見て驚きました。2016年版で100版を超えていたのです。

 大阪の家に置いてきた林房雄の「息子の青春」に始まる青春シリーズをネット検索しましたが、残念ながらシリーズとしては見当たりませんでした。「息子の青春」だけが検索できましたが。

 これは私の学生時代に出版されたもの。自分の青春時代と重ね合わせて夢中になったもの。石坂洋次郎、源氏鶏太などの本もよく読んだと思い出します。東宝映画は青春映画が多かった。

 そういう若い世代も今は誰かのに憧れるよりは自分で体験する方が先行するのか、「青春」という用語そのものを聞かなくなったように思います。時代は変わりました。

(2449)エスカレーターの第一歩

 足が弱くなり駅などではエスカレーターがあればお世話になることが多いのです。何しろ階段は手摺りがないとふらつくもので。それでもエレベーターはあんまり使いません。どういうわけか足の速い人が先に乗りさっさとドアを閉めてしまうものですから。

 その箱が戻ってくる時間が惜しくて階段を上がってしまいます。結局まだそれだけの元氣があるということでしょう。もちろんデパートなどの上層階にはエレベーターを使います。

 エスカレーターは父が健在だった頃の戦時中に乗ったことがあるのかどうか、記憶が薄れています。京都駅前の丸物や四条の大丸といったデパートの屋上遊園地で電気自動車に乗ったことは記憶しているのに。しかしそういうところはやはりエレベーターで上がったと思います。エレベーターは綺麗なおねえさんが運転していました。

 ハンドルをくるくる回し巧みに各階のフロアと段差が生じないように止めてくれました。ボタンで自動運転が始まったのは東京に来てから。ボタンを押すタイプのエレベーターは怖くありませんが、エレベーターガールが運転したようなハンドルを回すタイプのエレベーターも自動化され、古いオフィスビルには残っていました。

 これは閉じ込められる恐ろしさがあり、誰かが同乗してくれれば乗りましたが一人ではちょっと。

 戦後大阪生活になり始めてデパートのエスカレーターに乗ったときは最初の一歩が進めず、あとの人に怒鳴られたような覚えがあるのですがその時はもう中学か高校時代。とすればあれは疎開前に京都のデパートで演じたことだったのかな。父と母に両手を釣り下げられる形で乗ったことがあったようにも思います。

 小さい頃のことは最後まで覚えているものだと聞きますが、こうなると自信がなくなりました。はっきり覚えているのは我が子達もエスカレーターの最初の一歩がステップに乗れなかったこと。子供はみんな同じ経験をして一人歩きし始めるものだと教えられます。

(2448)駅のエレベーター

 現役当時は休日以外ほぼ毎日利用した東京駅。上京したときにはすでに開設されていた八重洲口が丸ノ内側より賑わっていたような気がします。大丸があったせいかもしれません。といっても通勤時間はまだ開店していないのですが、オフィスも日本橋近くに多くあったからでしょう。

 夜は夜行急行に乗せる本社への定期便を運び込みます。係員が忙しいときはそのままホームまで運んでくれと言われて荷物専用のエレベーターを使うよう指示されました。エレベーターは旅客用でなく荷物用としてあったのです。それ以外にも10番線あたりに普段使われていないエレベーターがあり、皇室専用と聞いた気がします。

 その後荷物専用エレベーターは事故があって、駅員が必ず同乗するようになり一般人を乗せるのは厳禁となりました。荷物専用エレベーターは荷物扱いをする高架駅の多くに設置されていたのか、関西でも同じ経験をしています。

 貨物扱いをする急行、特急がなくなり貨物専用列車が走るようになると定期便もそちらに変わり、東京駅を利用することはなくなりました。しかし貨物専用エレベーターはそのまま残っていたと思います。

 それもいつの間にかなくなり代わって乗客用のエレベーターを設置。乗客優先の姿勢がはっきりしてきます。

 いろいろ変わる東京駅ですが、上京以来半世紀以上も経ていまだに工事をしていない期間の東京駅は見たことがありません。もちろん会社を辞めたあとにそうのような期間があったかもしれませんが、旅行などでたまに東京駅に出てもやはりどこかに板張りのところが。

 駅舎が老朽化しているのはわかりますが、それにしても。

(2447)都心の駅

 国鉄時代の駅はいかにも乗せてやるという顔を持っていました。トイレや売店もおざなりといった風。とくにトイレの汚さはひどく悪臭が漂い、場所を聞かずとも匂いでわかるという有様。

 今ほどに身障者が出歩かなかったことが理由かどうか、階段が雨ざらしのところもあり危険この上なしでした。

 そうした風景を若い人は知らないと思いますが、それほど昨今の駅は様変わりしました。テレビを見ると都会だけでなく、無人駅も地元のボランティアが管理に協力しているそうで、テレビに紹介されるほど美しくサービスがよくなっています。

 駅は人々の集まるところと定義が変わったかのように最近の駅は美しくなりました。トイレはキレイに磨き上げられ、トイレットペーパーは常備され一昔前、持ち合わせがないと新聞を破って使った時代は過去のもの。当然トイレ入り口にあったポケットティッシュの自動販売機も見かけません。当時はそういうものでもサービスが行き届いた駅だと思ったものでしたが。

 都心部の駅の殆どにエスカレーターやエレベーターが設置されています。足がめっきり衰えた私もときどき利用させてもらいますが、しかし出来るだけ歩いた方がよいと医師に勧められ、階段を歩くようにしています。

 駅のみならずエスカレーターが取り付けられた歩道橋も増えてきました。高齢者、身障者にはありがたい話です。こうなると人間、さらに欲が出るもので自転車のための便宜も図って欲しいと思うことがあります。

 一般に歩道橋があるところは横断歩道がなく、自転車の横断が出来ないところが多いのです。自転車事故が多くなる一因になっているかもしれません。

 それにしても駅が単なる通過点でなくなったのは素晴らしいことだと思います。

(2446)旧日本軍

 大阪に住んでいた頃近くに伊丹基地がありましたが、天王寺あたりを闊歩していた進駐軍はどこの所属だったのかわかりません。恐らく堺のほうの基地だったと思いますが、それほど米軍基地や施設を見る機会がありませんでした。

 東京勤務になり、武蔵野市の公団住宅に落ち着いたため、近くに米軍の将校宿舎がありそれが立川基地に付帯する施設と知り、にわかに基地が身近なところにあると認識したものでした。厚木、横須賀など首都を取り巻く基地の存在は知っていましたが、生活の拠点近くに基地があると感じ方が変わってきます。

 それが転居の度に立川、横田に近くなり、入間にも。すべて米軍の管理下。そんなに近くに基地があっても関心がなければそれが航空隊なのか、陸軍が管理しているのかまで知ろうとしません。基地と駐屯地の違いもわからなかったくらい。

 現在立川基地は全面返還され防災基地として運用されていますが、陸上自衛隊と航空自衛隊も共用しているそうです。そこで気付いたのが航空自衛隊の称号。

 昔の日本軍は陸軍、海軍はあっても空軍という組織が無かったと覚えています。陸軍航空隊、海軍航空隊とそれぞれ陸海のどちらかに所属していたというように覚えています。それが当時の軍の考え方だったのでしょう。そのように考えれば米軍が爆撃機を駆使して日本を焦土にしたのに、日本は反撃の術を知らず米空軍のなすがままという状態になったのも無理はないと思います。

 しかし今後の国際間紛争は武力紛争でなく、ロボットを使ったり、無線通信を駆使した無人の争いごとになってゆくかもしれません。そうなれば通信部隊が必要になるかもしれません。陸・海と地上だけでなく宇宙を見据えた立体的な視野が必要な時代に入ったのでしょう。

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