(2553)祖父の教え方

 祖父、別けても共に暮らす期間が長かった母方の祖父、怖かったけど今思い出せばやはり私の身についていました。祖母のように細かくはないけどそれはそれで私の生涯に影響を与えています。

 特に思い出すのは灸、酒、たばこ。なんとなく鬱陶しくて祖父母の部屋にはあまり行かないようにしていましたが、時々呼び出されます。部屋に入ると甘いものを食べているか、酒、たばこをたしなんでいる姿、さらに灸をすえているところもよく見ました。

 お灸を据えているのを見ていると「悪さをするとおまえにもすえてやるから」。あんな熱いものを背中で転がされたらたまりません。すぐ逃げ出しました。祖父自身が熱い熱いと悲鳴を上げているのですから。それなのに自分でモグサをおいて火をつけているのです。

 肌が厚くなったのか、キセルたばこを吸えばたばこの葉を詰め替えるまで、今まで吸っていたたばこの火を手のひらで転がせながら、新しく詰めたたばこに火を移していました。まさか灸の熱さで皮膚が不感になったわけではないでしょうが。

 たばこや酒をおいしそうにやるので物欲しそうな顔をしていたのでしょうか。「おまえもやるか」とたばこを吸わせます。吸い方がわからない私は祖父のまねをして煙を飲み込みむせてしまいました。それ以来たばこは吸わないと思ったものです。あんなまずいものを。

 だから学生時代、二十歳になって学友たちが吸っているのを見ても全く触手が動かなかったのです。祖父にすれば反面教師という考えだったのかも知れません。

 酒も祖父にすればたばこと同じように二度と飲みたいと思わないようにするつもりだったのか、少し飲んでみるかと盃に少しばかりついで私に。量が少ないためかグッとのどを通ってしまいました。物足りません。甘くてうまかったと覚えています。

 お代わりといって叱られました。むせて飲みたくなくなると考えたのでしょうか。思惑が外れたようです。

 今、どちらもやりながらその頃のことを思い出してしまいます。

(2552)喫煙と子供の所持品

 喫煙者に対する風当たりが厳しくなってきましたが、未だに1日5本程度をたしなむ私はあまり気にしていません。先日の検査結果が出れば手術が必要になるかもしれない身で、もし入院ということになれば当然たばこは吸えないでしょう。

 1日1箱吸っていたのにここまで減らせたのです。東日本大震災の頃は禁煙も成功していました。退社後白内障手術で入院したときもたばこをやめています。

 そもそも私がたばこを吸い出したのは就職後半年ほどしてから。配属された職場の男性はほとんどが愛煙家。仕事の段取りを教えてくれた先輩も喫茶店でコーヒーとたばこを離しません。コーヒーを早々と飲み干した私は手持ちぶさた。つい先輩からたばこをもらって。いつももらってばかりというわけにもゆかず自分で買うようになったのです。

 終戦前後の時だったと思いますが、疎開先で学校の悪友と木に巻き付いていた山吹の枯れ枝を切り取り、火をつけて吸えば煙が出てたばこを吸っている気分。そんな遊びをしたこともありました。そのうち先生に知れてたばこを吸う格好の遊びは禁止。喫煙のまねごともさることながら、山火事の恐れが伴っていたからという記憶が。

 このように思い出してみると、マッチやナイフを持っていたことは注意の対象でなかったように思います。時々不意打ちで所持品検査があり、子供にふさわしくないものは没収されました。しかしナイフは鉛筆を削るために必要として認められていました。時代によって子供に許容される所持品も変化してきています。

(2551) 介護日誌 11

 15年1月、家内に付き添ってもらって府中試験場で免許証返上手続きをした。その間近くに付き添わせるようにしたが、トイレで離れたときもおとなしく待機。しかしこの頃から夜になると自分の家に帰ると外に出るようになった。

 医師は無理に手を引っ張らず後ろからついて行き、気持ちが収まった頃言い聞かせるようにと注意を受けたが、足が速くなかなか追いつかない。

 気持ちを落ち着かせるためと新しく漢方薬を調合。15年春に介護認定を受け7月から週1回のデーサービスを昼間。1日とはいえ、自分の時間が持てるようになった。

 同年の秋、神戸で元の会社仲間の集まりがあり、ショートステイを依頼したが、適当なところがなく日帰り。その間近くに住む娘が会社を休み面倒を見てくれた。

 16年になると起床時間が遅くなり、朝、昼兼用食が多くなる。体重は夫婦そろって減少。私自身は60キロ維持の体が今年は49キロに。家内も似たようなもので30キロ台。

 これまで一応献立を考えて作っていた食事、全く考えられないようになり料理不得手の私が手を出さざるを得なくなる。レシピをネット検索したり、料理テキストを購入して作ってみるが書いてある通りにしか作れないので、材料不足で途中でやめたりも。

 主治医は私の報告を聞きながら薬の濃度を調整してくれるのだが、治らないという現実はいかんともしがたい。疲れがひどく自分も時々転倒して皿を割ってしまう。

(2550)途切れる寸前


 命が絶える寸前、突然元気なところを見せることがあると小さな頃から聞かされてきましたが、人の命だけでなく機械なんかでもそうした瞬間をよく見かけます。今はほとんど見なくなった白熱電球もそうでしたが、蛍光灯もそうした瞬間があります。

 モノをできるだけ長く使うよう、注意しているせいか電化製品はもちろん、食器類もなかなか新しいモノに変わりません。物置に置きっ放しの方がそれらのモノに不遇な目を味わせていることになりますが、使用できるモノを捨てるわけにもゆかず。

 ところがこのほどトイレがいうことを聞かず「流す」ボタンをリモコン操作して水が素直に流れません。1,2ヶ月様子を見ていましたがついに更新することにしました。

 ところがどうでしょう。更新工事をする2日前から思ったように働いてくれます。自分の末期を悟ったのでしょうか。とはいえ実際に解体作業を始めた作業員の手元を見るとこれは単なるトイレ用品でなく、電子機器の一種というのがよくわかります。

 こんなところにも配線がほどこされているのかと感心して見とれていました。やはりこうしたモノはある年数で取り替えた方が、利用者だけでなく機械にも負担をかけないのではと考えさせられる一日でした。

(2549)トラブル続きの一ヶ月

 10月から11月にかけての一ヶ月、ほんとうにトラブルが続いた月でした。まずはトイレの詰まり。水が流れないことから修理を頼むと近くの店は夜間即座の対応ができず、マグネットの広告を放り込む業者に依頼。即応してくれたついでに排水溝の交換が必要と。近くにある木の根が張りだしてコンクリートのマンホールを突き破っていました。

 これは近くの水道器具取り付け業者の紹介する工事屋に依頼。するとトイレのリモコンが効かないのはかなり以前の製品のため、電化製品の一種であるこのタイプは部品がなくなっている。というわけで十数年ぶりの更新。

 一方7月に買い換えたパソコンは一ヶ月ほど前からマイクロソフト エッジがうまく働かず、面倒になりいったん初期化し直しました。前回の買い換えでデータ類を喪失した苦い目があるのに、今度はバックアップをUSBに頼りデータを呼び出すソフトがなくなったり、その逆をやってしまったり。何事も手抜きはだめですね。

 そういえばここのところ続けざまに大手企業の手抜き作業、データ改ざんがありました。大勢で渡れば赤信号も怖くないというわけでないと思いますが。

 今月の月初めには関西に帰ったこともあってご無沙汰の多いブログになってしまいました。書くことはいろいろあるのに。

 ところが今度は私の体調がよくないと医師からの指摘。外科医を紹介するからそちらで見てもらうようにとのご託宣。何でも手術が必要とか。せっかく復活させたと思ったブログ、またもしばしの休憩をいただくことになるかも。

(2548)桜の紅葉

 花の吉野は秋の紅葉シーズンも鮮やかな色を見せます。中の千本、その中にある旅館のロビーから眺めた上の千本を含む山肌は秋の色で彩られていました。ただ一部が先般山火事があったとかで他と違った色合い。
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 日本最古というロープウエーも春過ぎにトラブルがあったそうで、最古が災いしたのか部品調達もママならずいまだに運休中。ロープウエーからの眺めも見られません。

 やむを得ず久しぶりに登った七曲がり。麓のロープウエー駅横を通らず、車を通すために出来た道路と結ばれて頭に残っている昔の面影がどこかへ。都会だけでなくこうした山中もしばらく見ないうちに変わるものですね。
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 如意輪寺の後の道路が出来たおかげで大型自動車が山を駆け登ってくるようになってから、もう半世紀は経つと思います。便利が良くなりその分桜の木が少なくなったような気もします。

 それでも秋色は間違いなく忘れずに山肌を染めていました。

(2547)あべのハルカス

 梅田近辺は時々歩いてみるのに、若い時にさんざん歩いた阿倍野近辺は全く行かなくなりました。近鉄阿部野橋駅は吉野に行くため時に利用することがありましたが、ハルカスが出来るまで地下鉄から近鉄への乗り換えがわかりやすく、駅近辺を歩くことがなくなっていました。
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 せっかくだからと今回はあべのはるかす見学を予定し、結果お登りさん同様。よく知っていたはずの阿部野橋駅周辺、様変わりが大きくそれこそ右左がわからなくなったのです。

 地下鉄と近鉄の改札がわかれば途中脱線しても元のところに戻れるのに。両者の間に百貨店が構えを広げてお互いの位置関係が宙の空。大まかな位置関係を掴むのに1時間以上費やしたでしょうか。それなら誰かに聞けば良いのに自分で全体像を掴もうとしたため時間の空費。

 現在のところ日本一の高さを誇るビル、ハルカスの上層に上がろうとしましたが、オープン後3年というのにエレベーターは長蛇の列。北斎展が開かれていたのも混雑を増す要因の一つ。
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 とりあえずエレベーター乗り換えフロアの16階までと考えましたが行列が長いのでオフィス用のエレベーターで17階まで上って16階に下りることに。ところが乗り換えフロアに美術館があり北斎展に行く人たちと混ざって何が何だかという混雑ぶり。

 結局16階にある室外庭園で外の空気を吸い、天王寺公園を見下ろして退散することにしました。さて気分直しにコーヒーをと思っても、銀座や神戸で見るような純喫茶の店がなく、ピザやなにかの食べ物を主体にしたような店ばかり。落ち着いてコーヒーを味わえるようなところが見つからず、外に出てやっと格安コーヒー店を見つけ呼吸を整えた次第。


(2546)ユニバーサルスタジオ

 年数回帰った大阪も今は遠くなり年1,2度。今年も6月に続き今月初めに1週間近く滞在しました。
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 久しぶりの大阪も東京に劣らず帰る度に変身し、梅田の定宿にしているホテルへの道を迷ってばかり。

 梅田の地下道が非常にわかりにくいのです。あちこちに案内図があるのですが、現在位置からの方向がつかめず、今回も東に向かうはずが気がつけば南に下っていました。それなら最初から地上を歩けばいいようなものですが、地上での道路横断箇所が制約されていて簡単に道の反対側に渡れません。
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 そんな目に遭いながら、いつも覗いてみようとして目的が達成できなかったユニバーサルスタジオの見学を実行しました。

 ロサンゼルスのユニバーサルを2度ばかり訪れているのでつい比較した目で見てしまいます。ロケに使った山をそのまま抱え込んだロサンゼルスのそれにはかないません。ずいぶん狭く感じます。

 あいにくの雨、しかし外人観光客や団体客、修学旅行生らしき姿が多く人気アトラクション、乗り物はどこも長い行列、入り口には45分、90分待ちなどと書かれていました。
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 自分の年齢を考えるとジェットコースターに乗る勇気はありません。もちろんそうしたものも1~2時間待ちです。結局比較的すぐ入れると思われたアトラクションを二つばかり。

 それでも20分ほど待っての入場。3Dの映像と連動した座席、椅子が揺れたりしぶきがかかったり。もう一つのほうも同じような仕掛け。おかしいのは外に出ても自分が何というテーマのものを見たのかさっぱりわからないこと。積極的な意思で選んでいないのでアトラクションの名称がわからないのです。

 外をウロウロしていて目に付いたのがパレード。賑やかな音楽に包まれ、派手なダンスを披露しながら行進する乗り物とダンサー達。高齢者にも楽しめる一番のアトラクションでした。

(2545)2600

 年賀状の送付先が年々減少していることは何回か触れていますが、結局来年用の年賀状を50枚ばかり買うことにしました。やはり正月早々の不義理は双方とも愉快なものでありませんから。

 はがき代が値上げになりましたが年賀状だけは値上げになっていません。2600円です。2600という数字、どこかで聞いたことがあると思えば私が尋常小学校に上がった年でした。

 昭和15年、当時の神武暦で「皇紀2600年」。もし日中戦争がなければ東京オリンピックが開催されるはずでした。幼稚園から小学校、教えられ歌わされた歌詞は今も忘れていません。

 金䳄輝くニッポンの
 栄えある……
 ……紀元2600年」
と続く歌詞だったと思います。。

 昨日のことは忘れてしまうのにこんな昔の歌を覚えているのはどういうことなのでしょう。よほど厳しく教えあられたのかもしれません。当時意味までわかっていたのかどうかはわかりません。

 それにしても勇壮でテンポよいリズムで覚えやすかったのも事実です。昭和39年の東京オリンピックで歌われたのは盆踊りにも向くような音頭になり、やはり軽いリズムが受けていました。

 歌のことはともかく、2600という数字で体が反応するのは紀元2600年の想い出が染みついているからではないかと感じるのです。

(2544)眼鏡

 私が眼鏡の世話になり出したのは浪人時代のこと。最初の大学入試までは眼鏡が不要だったのに。高校卒業で最初の大学受験は国立大学の単願。いわゆる滑り止めはしていません。

 今のような全国一律の共通試験はまだ実施されていない時代です。国立、公立大学の受験日は全国で統一されており、東大、京大のように競争率の高い大学は一次、そうでない国・公立の大学は二次と二回に分けられていました。二回しかチャンスがないわけです。

 私立大学は国・公立大学とダブらない日に試験日を設定していました。多くは国・公立大学より前に試験を実施し、国・公立大学入試の結果発表前に合格者の授業料を徴収して他大学に流れるのを抑える工夫をしていました。重複受検をするのは経済的な余裕がないと無理といえます。

 そんなわけで母子家庭となって母に育てられた私の場合も複願というのは出来ません。一発勝負に敗れ1年だけ猶予を貰って予備校通い。予備校も少ないため希望者が多く、大手予備校は選抜試験がありました。

 急速に視力が落ちだしたのはその頃です。眼科医の勧めでついに近視用メガネを。母にずいぶん迷惑をかけたものだと思います。妻は遠視。眼鏡は不要と着用していませんでした。私の定年と前後した頃からメガネを着用するようになりましたが、そのきっかけがどうだったかよく覚えていません。

 その妻も今はメガネがないとウロウロするのは老眼が混ざっているためだと思われます。さすがに風呂に入るときは二人とも眼鏡を外しますが、寝るときにも眼鏡を外さなくなり、危ないからと無理に外させます。そういう時に「何故そんな細かいことを」と怒り出すのは病の影響でしょう。

 「夢はメガネがなくても見られるから」と説得して一応外させてもいつの間にかまた。

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