(2357)昆虫採集と注射

 夏休みが終わり早1ヵ月近く。学童達の宿題は今どういう形なのか、今年から新1年生の孫も離れて住んでいるので実態はわかりません。それにつけても思い出す昆虫採集の楽しさ。捕虫網を持ってトンボたちを追いかけ回していた子供時代。その網を一緒に遊んでいる友達の顔にかぶせたりして。

 捕獲したトンボや蝶々はそのまま標本台にピンで差し止めますが、一応アルコールで体を拭いたような気がします。そのまま止めてしまうと腐って嫌な匂いが出たからです。私は蝶々を標本にしても蛾は採りません。羽根の粉が嫌いだったのです。

 蝶は花に止まると羽根を閉じます。子供でも閉じた羽根を素早く掴めば簡単に採れます。蛾は同じように止まっても羽を広げたまま。両羽根を掴めずいつも掴むのは片側の羽根だけ。当然羽根をバタバタさせますから粉が飛び散ります。蝶の羽根は粉がありません。

 蝉やカブトムシなどは腹に注射針を刺し、たぶんアルコールだったと思いますが液体を注射しました。当時は昆虫採集用の注射器セットが市販されており、夏休み前に父が買ってくれました。小学校3年生ぐらいの時に。昆虫図鑑も合わせて。

 昆虫図鑑は大切にしており、東京転勤になるまで私の本棚にしまってありましたが、いずれ本社に戻るからと実家に置いてきました。結局いつの間にかなくなっていました。

 注射器セットは疎開先から大阪に移ったとき、アルコールが入手できない時代とあってそのまま疎開先に置いてきました。その後このような器具は子供に持たせないようになり、おもちゃ屋での販売がなくなりました。

 このような器具を子供に販売するのはたしかに問題があります。しかし昆虫の生態を研究したい気持ちの子供に持たせないというのはどんなものかと思います。親の監督を受けながら使わせるほうが、正しい医療器具の扱い方を覚えてよいのではと。

 結局私自身は医療関係の仕事につかなかったのですが、あとで知った父親の願いは私を医者にしたかったということ。母に言い残して出征したそうです。

 ということで注射器の扱い方はこの時に覚えたものでした。

(2356)東京ドームで見た地下ブルペン

 今年のプロ野球もいよいよ残り試合数を数えるぐらいになりました。横浜DeNAがCSシリーズの出場権を得て横浜球場は満員続きとか。

 CSシリーズの最初は2,3位のチームが2位球団のホームでゲーム。ところが横浜は東京ドームにおける対巨人戦の勝ちに恵まれないとのこと。それなら2位に入るしかない。

 東京ドームが出来た頃、舞台裏を見学する機会がありました。地下にあるブルペンも見ました。投手の練習場。

 地上のブルペンは1,3塁とも同じ幅を採ってあったかどうか、確か同じように2人なら2人、同時に投げられる広さだったように思います。ところが地下はスペースの関係なのか、1塁側は3人投球練習が出来るのに3塁側は2人しか投球できない広さ。ホームチームの有利さとか。悔しけらば自前のドームを持てば良いという事。

 となればここは横浜、分の悪いドームより2位に上がってホームグラウンドを使わねば。というのかここのところ巨人を追い詰めてひょっとするとというところまで来ました。

 大阪出身の力士豪栄道が角番優勝を果たしたところ。条件は似ています。もうリーグ優勝は出来ませんが、せめて2位になり日本一の座を。というファンの願いです。

(2355)緑のカーテン

 我が家の近所、毎年見かけた緑のカーテン、今年はあまり見ません。我が家は以前から作っていませんが。外気が暑ければエアコンで済ましてしまうものですから。エコのために作っておいた方がよいと思いながらいつも気付いた時は時期的に遅くて。

 緑のカーテンはここ数年来新聞や放送でも取り上げるほどになりましたが、昔から田舎でよく見たように思います。縁側を隠すように竹を組んで植物を這わしていました。ただその植物がなんであったか忘れていました。

 今はゴーヤを這わせるところが多く、できすぎたからと近所にお裾分けをしたりしていますがあの頃は?緑のカーテンと全く関係ない話題でテレビがひょうたんを話題にしていました。そこで思い出しました。

 父の実家はひょうたん、ヘチマの蔓を這わせていました。同じような恰好ですがヘチマの胴をくびれさせたようなひょうたんの形がおかしかったのを覚えています。長く育ったひょうたん、こじんまりと丸く実ったひょうたん、いろんな形のひょうたんが見られました。

 大津では朝顔の花を楽しませていた家がありました。朝顔は狭い路地の家で色彩の美しさを誇らしげに見せてくれました。どこかではキュウリを緑のカーテンとして。こうしたつる性植物は早くよく伸びるので恰好の素材だったと思います。

 エアコンが無い時代、夏は何処も家の中がよく見えるほど窓を開け放します。木造住宅の窓は一般にそこから庭に出入りできる広さ。今のようなモルタル作りの家でないため目隠しが必要だったのかもしれません。エコのことは考えていません。生活上の必要性が自ずと緑のカーテンという発想になっていたのだと思います。

 それにしても思いつくところは同じようなこと。昔も現代も考えることは同じだなと苦笑させられるのです。

(2354)強い者は強い

 プロ野球のクライマックスシリーズ(CS)。アメリカのように沢山の球団で大リーグを編成しているならともかく、両リーグ合わせて12球団で構成している日本のプロ野球は変わったことをやります。それぞれのリーグで上位3球団が戦い、トップに立ったチーム同士で日本一を決めるなんて。リーグ優勝できなかったチームが覇権を獲ることもありうるという説明がうまく子供に説明出来ません。

 しかし贔屓にしている球団がこの制度が始まって初めて出場資格を取ったとなれば話は別。なにしろ12球団中唯一未経験だったのですから。これは自慢になりませんが。

 横浜という名が球団名から消えて5年、その前からCSと無関係。他人事みたいなものでした。

 今朝の新聞は今年の横浜球場、満員の日がいままでになく多かったと伝えています。そういえば日本人横綱が久しぶりに生まれるかという騒ぎの中、大相撲もここのところ満員御礼が続いているそうです。

 勝負事はなんでも強くなければ始まりません。強いところに人は集まります。オリンピックが世界の注目を集めるのも自国の活躍を期待してのことでしょう。ただし今回のオリンピック、次回開催を決めた日本はともかくとして、勝負事として今ひとつ面白くなかったのはロシアの出場問題のせい。

 正々堂々と戦いに臨まねばならないのに薬に頼るのはスポーツマンらしくありません。オミットされて当然。しかし中には薬と関係の無い選手もいたはず。一概にあの国だからといって有力選手が欠けたところで勝ってもそれほど感動を生みません。

 かつてのモスクワオリンピックでは政治問題から日米などが参加を見合わせました。この日に合わせて体調管理をしてきた選手達は涙を飲まざるを得ませんでした。テレビ中継はありましたが興が乗らなかったことを覚えています。

 スポーツの世界は強い者は強い。ごく当たり前のことなのに誰が強いかを見極めたくてファンは歓声を上げるのです。強いものがいない場で勝者がいてもファンは喜べません。

 そんなことを言いながらも白鵬が休んでいる間に誰か日本人が横綱になれば私も鬨の声を上げるでしょう。我ながらファンは勝手(カッテ=カチテ)なものだと思います。

 そういうわけでCS制度の矛盾を感じていた自分もDeNAのCS出場で文句を言えなくなりました。やっぱりついものが物言う世界です。スポーツは。

(2353)上下関係

 サラリーマン社会には必ず上下関係がつきまといます。それも年齢ではなく社内のキャリアが。高卒と学卒という学歴差より先に入社した方が先輩、しかし通常高学歴のほうが役に就くのが早いため途中で逆転するのも避けられません。相撲社会のように学歴より実力がモノをいう世界もありますが、ここでも年齢、学歴に関係なく役力士のほうが平幕より上位にあることに変わりありません。

 一方相撲社会や同一企業の中で上下関係が成立するのであって、他の社会と交わった場合は必ずしも成立する関係でないというのも否めないと思います。いくら相撲で横綱を張っていてもプロレス社会にはプロレス社会の上下関係が存在し、相撲のランクは通用しません。

 現役の頃業界関係団体の委員に任ぜられましたが、各社内でそれぞれの役職があり局長、部長ら違う立場の人が出席していました。しかし委員会のメンバーは各社内の役職にとらわれない同一の立場でないと発言できないと考え、そのように実行しみんなの信頼を得ました。

 退社と同時に部下だった人に対する呼び方も呼びつけ型から君付けに変えています。定年後の生活まで昔の上下関係を持ち出されたら大変です。

 そんな考えですから先日の元知事が豊洲市場問題でいきなり「下のものが」と発言する場面に一瞬どきっとしました。しかしこれは彼が担当していた時代の問題についてですから発言の不備は無いと思います。

 感じたのはかなり上下関係を意識する人だなということ。意識しない人であれば局長から聞いたとかいうことになっていたかもしれません。どちらがいいとかでなく自分が意識していることはとっさの場合、つい口をついて出るものだと感じたのです。

 私に役がついたときの上司は「部下という意識を持てば仕事がやりづらくなる」と教えてくれました。、

(2352)わかりにくい

 「隠された真実」といえばミステリーじみますが、石原元都知事のいうとおり役人の世界は「伏魔殿」です。新市場の問題もちょっとニュースを聞いただけでは意味がくみ取れません。しかも小池新知事の誕生と同時に豊洲の埋め立て実態が明るみに出たのもなぜだか。タイミングがよすぎます。

 誰がこのことを明らかにしたのかもはっきりしません。タイミングから見れば新知事が盛り土がなかったことを発見したのでもなさそう。ところがニュースは新知事、元知事や市場関係者という人を指す言葉と、都ではというように人称形でない用語を並列で伝えるため都とは誰のことかわからなくなってしまっています。普通に考えれば都の責任者は知事ということでしょうが、この場合そうではないようです。

 誰がいつどこで何をしたかということを伝えるのは報道の基本と昔から聞かされてきました。どこかの会社が新しい技術を開発したというような場合は会社名のあとに代表者名を括弧書きしていました。気がつけばいつの間にか非人称が一人歩きを始めています。

 重箱読みも今は気にならないくらいよく使われています。テレビで盛り土を「もりど」と発音しているのが引っかかりました。しかし辞書を調べると建築業界などは専門用語としてこのように読んでいるそうです。子どもの頃教わった読み方だと「もりつち」か「せいど」になるはずと思っていましたが、それはそれで辞書もとくに注記せずその意味が書かれていました。以前から書いているように日本語の読み方は難しいものだと悟らされただけです。

 筆順なんかももう私は子供や孫に教えられなくなりました。昔受けた教育は今通用しないのです。その知識で今のニュースを読もうとするのですから無理が伴うのかもしれません。

 そういえば戦後の現代仮名遣い、当用漢字を嫌い、我々が新教育を受けているときも旧仮名遣い、旧書体の漢字を使い新用語に書き換えることを断固拒否していた作家がいました。その時は有名作家といえど時代に合わせなければ若い人は彼らの文章を読まなくなるのにと思っていましたが、今になってそういう人が頑張った意味がなんとなくわかってきた気がします。私も古くなったのでしょう。

(2351)鉄道のコーポレートカラー

 企業はそれぞれ自社の特徴を売り出すべく、独自の色を付けて目立たそうとします。一般企業と違って競合が少ないような鉄道会社もこの流れは変わりません。ましてや競争の激しい関西の鉄道はそれぞれ独自の色で車体を塗り、特徴を出そうとしています。落ち着いたチョコレート色の電車は阪急とすぐ連想を走らせるほど定着しています。

 鉄道のカラー戦略は関西で早くから取り入れられており、利用者にとっても便利のよいものでした。大阪市営地下鉄御堂筋線は天王寺、梅田簡の各駅壁面が色分けされており、停車しても外の景色が見えずどの駅か判断できないときにもそれがどこかわかるようにされていました。

 大阪を離れて半世紀以上経ち、路線網も東西南北に延びた上、地上駅も多くなった現在の大阪地下鉄がどのようになっているのかはわかりませんが、2,3年前帰阪して久しぶりに乗った御堂筋線中心部の駅はタイルのカラーがあせており、色で判断するのは無理だと思いました。

 たびたび利用する東京の多摩都市モノレールは沿線各駅をツートーンカラーで識別できるようにしています。各駅とも同じ色を使いながらその面積を変えることで区別しています。同じ色を使うことで塗料の節減を図ったのでしょう。駅名表示板はその駅のカラーを背景に駅名が描かれています。

 各駅に掲示されている沿線紹介のボードに駅のカラー配分が明示されていますが、鉄道会社側でとくにPRするわけでもなく、乗客も駅名ボードがはっきりしていますから色彩にまで注意を払う人はまずいないでしょう。地下区間を走る地下鉄とは状況が違います。

 駅名と違いますが、昔はコダックのコーポレートカラー、鮮やかな黄色が印象に残っています。フィルム時代が過ぎて親しみのあったあの独特の黄色が最近は目に入らなくなりました。

 なくなればそれがあった頃を懐かしむ、それがあった時は意に介さなかったのに。おかしな人間心理です。

(2350)持ち時間

 大相撲秋場所が始まりました。横綱狙いの日本人力士が現れ、今年になってから大入り満員がつづく久方ぶりの盛況ぶり。これは若貴以来のことかな。

 あの頃と違うのは今の取り組みが制限時間をめいっぱい使う力士が殆どということ。というより最近の幕内で制限時間内に立ち上がる力士を私は見ていません。若貴の頃は時間が来なくても両方の息が合えばすっくと立ち上がり、取り組みを始めた場面も見られました。

 それだけにいつ立ち上がるかと目が離せず、私の目はテレビに釘付け。油断も隙もないとはこのことか?今は持ち時間の残りを見ながら途中用を足す余裕も。それが余裕のある生活?まさか。

 力士にすれば与えられた時間をフルに使って相手の出方を探ろうという気持ちがあるのかもしれません。それも作戦のうち。しかし見る側にすれば緊張感が漂いません。

 持ち時間というのは相撲に限らずいろんなところで見られます。囲碁・将棋もそうです。棋士は時間いっぱい考えに考えて次の手を打ちます。しかし観戦者にとっては疲労がたまる時間になります。観戦者側がそれほど興味を持っていないせいかもしれません。

 自分が指し手だと持ち時間を短く感じるかもしれません。現に素人将棋に興じているとき、しばらく考えるとすぐ外野席の観客は「早く、早く」と囃し立てます。指している当事者は真剣に考えているのですが、見ているほうはこの時間が長すぎると感じてしまいます。

 持ち時間は待ち時間と同じ意味かもしれませんが、当事者と傍観者でその受け止め方が真逆に感じることのほうが多いのです。往々にしてプロの対戦より素人同士の対戦が面白く感じるのは素人対戦に持ち時間がないためかもしれません。

(2349)このカードはあなたのではないですね

 日本語のあや、美しい表現が多々ありそこに美しさを見いだすのですが、その場の置かれた状況によって意味が食い違うことも少なくありません。最近こんな目に遭いました。

 スーパーで買い物をしていつも通りレジでプリペイド電子マネーカードをリーダーの上に置きました。すると担当者はカードに記載された名を見て「このカードはあなたのじゃありませんね」と取り上げてしまいました。妻の名になっていたのでつい私も「俺のじゃない」といってしまったのです。

 カードを作るとき、店長から「プリペイドカードだから家族どなたが使われても結構」と説明を受け、それ以来何年も使ってきたのに。

 その数日前にも同じカードを使って問題がなかったので「いつからルールが変わったのだ」と聞いても「ルールは変わってません」というだけ。私が現金を出すまで相手は黙っています。

 「妻の名前でも駄目とはおかしい、つい先日も使ったがなにも言われなかった」といったところ、「奥さんだったら最初からそう言えばいい」というので「あなたのじゃないね」と聞かれれば自分の名義でないので「違う」というのは当然と反論。結局店長が来て私の前に並んでいた客が忘れたものと店員が誤解したものとわかりましたが、後味の悪い思いをしました。

 双方がカッとなってしまうと冷静さを失い、根幹の部分を欠いたまま議論が進行してしまいがちです。名義がおかしいと思えば「女性の名前だけど」、前客の忘れ物と思ったなら「前のお客さんの忘れ物かもしれないので念のためお聞きしますが」で済んだ話。

 今回の場合当方は妻名義のカードを持参していること、レジ係は前客の忘れ物というほうに頭が集中し、お互いが考えているシチュエーションが食い違っていることに気付かなかったために起きたトラブル。

 こうしたトラブルは以前にもあったように思いますが、暑くなればつまらないトラブルでも大事件に繋がるかもしれません。気のせいか冬の寒いときはこんな食い違いが少ないように感じます。

 それにしても日本語は同じ表現でもその場の置かれた状況で解釈が変わることを認識させられました。

(2348)喧嘩の時は

 子供が学校でいじめに遭うことは昔からありました。とくに周囲の生活に馴染めないものなら恰好な標的になってしまいます。転校生のように。名前や癖がいじめの材料になることもあります。しかしいじめられる方も気の強い湖なら勇敢に立ち向かってゆきます。その勇敢さに惚れ込んだものが集まり、新たな集団が誕生した例もありました。

 引っ込み思案系の私はいつも傍観者。それでも自分が標的になったことも。そういう時父は負けて帰った私を叱り飛ばしました。「一発殴られたら二発殴ってこい。いつも相手の二倍殴れば相手は引き下がる」というのです。

 「しっぺ返し」でときどき理由をつけて二倍返しをし、逆にその倍しっぺを打たれてひどい目に遭ったことを思い出しました。そもそも喧嘩好きなグループとは出来るだけ遠ざかっていたので、父が言ったようなことに発展した喧嘩は記憶していません。

 予備校、大学とキリスト教系の学校に進んだ私は「右の頬を打たれれば左の頬を差し出せ」と聖書にあるのを知りました。父の言うことと似ているような、しかし実際は逆のこと。相手が一般的な右利きなら最初に殴られるのは左の頬になるという議論があるそうですが、それはさておき、似たような表現が海の向こうにもあったのです。

 どういう表現であれ、今の時代に学校でこういうことを先生が教えれば大きな社会問題になりかねません。戦時中でもさすがに学校でこういう教えはありませんが、おとなしく見えた父にもこんな気の強さがありました。自分で実行したのかどうかは恐ろしくて聞けませんでした。 

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