(2340)伝い歩き

 幼児が歩き出す頃は壁とか机、手の届くところを触りながら歩き始めます。いわゆる伝い歩きです。還暦から数えてすでに成人になった歳、幼児に比べれば遙かに遅く今頃私は伝い歩きが多くなりました。成長というより幼児に戻りつつあるのかもしれません。

 駅の階段は手摺りに掴まり、エスカレーターも必ず端により手摺りを掴んでいます。電車が混んでいれば吊革を握る。ポールを掴む。当たり前のように。

 電車を見ながら考えました。汽車やディーゼルカーは架線に触れていません。なのに電車はいつも架線に触れています。電車のほうが汽車、気動車に比べて年寄りなのか。架線に触りながら走る姿が私の現在に似ているような気がします。

 先年最後になるかもしれないといいながら行った黒部、奥深い山の中から殆どトンネル内を走り、集落のあるところに出るトロリーバスは自然を守るためのものと聞かされました。以前は大阪駅s前からもトロリーバスが走ったことがあります。

 自動車が走るのに邪魔とかでいつの間にか取り払われました。掴まるべき架線がなければこういう乗り物は走れません。都会では公害を少なくするよりも支えるものが邪魔扱いされたのです。放置自転車が置かれて視覚障害者を困らせる点字ブロックの存在と似ています。

 足腰が弱くなったことを痛感し、何かに掴まらなければ歩行が心配になった昨今です。老人は黒部のトロリーのようにいつも壁を触っているわけに行きません。杖が必要なときが近づいていると自覚していますが、できる限り伝い歩きはしないように心がけているのが実情。

 といいつつも明日は久しぶりに都心へ出かけてみたいと考えてみたり。年寄りの勝手さかもしれませんが。

(2339)他人に伝える難しさ

 以前にも書いたことですが、初めて子供に味覚を教えるのは、親と同じものを子供に食べさせ「おいしいだろう」「しょっぱいだろう」と半ば強要するような形で教え込んでいるように思います。親が味音痴であれば大変なこと。果たしてこちらが感じている味が正確に伝わっているのか。

 とはいってもある程度正確に伝わっていると感じるのは、ひとり暮らしを始めた人、とくに男性が感じることのほうが多いようですが「お袋の味」という奴。こればかりは舌に焼き付いたようで、うまい、まずいは別にして忘れられない味なのです。現実にそれを食べて育っているからだと思います。

 レシピは持たずただひたすらに母の作ってくれたおかずを口にしていたため、これを妻に教えることが出来ません。見よう見まねで自分で試してもその味になりません。

 母の作った味に比較的近いのは母の実家で出してくれる料理。母はそこで習ったのでしょうから近い味が出るのは当然。それでも母のものとはなにか違う気もします。母は実家から教わった味付けを自己流に変えてきたのでしょう。父の好みを取り入れているうちに変調してきたのかも。

 さてこの味をどうして妻に伝えればよいのか。いくら夫婦でもそれを口にしてもらわねばいわゆる「共有」にはなりません。食べればわかること、それを言葉で伝えるのは不可能に近い。

 最近医者に診てもらってもCT、MRI、X線などで検査をしたあと「お歳ですから」で片付けられることが多くなりました。患者の不安は却って募るばかり。本当のことをいってくれてないのか?

 腰が痛い、足がしびれるなどの症状を訴えても、こちらが感じている痛みの箇所さえ細かく表現できません。腹の中は足の怪我と違い指をさして伝えられないからです。同じように痛さの度合いも震度3という具合になりません。とにかく痛いの一点張り、どの程度の痛さかも伝えられないのです。

 体温計のように痛さ計があればよいと思うことさえ。自分の体なのに他人にその状況を的確に伝えることの難しさ、いろいろあるものだと思います。

(2338)大文字焼と父

 先日京都五山の送り火(私は大文字焼という名で覚えています)点火の模様をテレビで見ていましたが、大津で親子共に暮らしていた頃のことを思い出しました。夏休み中ということもあって2,3度父に連れられて見に行ったことがあります。

 もちろんすぐ傍で見るのでなく、三条大橋の上から眺めたのですが、京都五山と聞いていたのにどういうわけか大文字山のことしか覚えていません。大という文字が光り輝く様子は今でも覚えています。しかし大文字焼を実際に見たのはこの国民学校時だけ。周辺の草木が刈り取られているためか、「大」の文字は普段でも山肌にくっきりと浮かび上がっていました。

 送り火では妙法などの文字もあったように思うのですが、子供の頭に染みついているのは「大」の文字だけ。疎開以後は大阪生活。近くても京都に行く機会がなくまして実家に帰ったりするお盆の時に大文字を見に行く時間が持てません。

 父には祇園祭の時にも京都に連れて行かれましたが、道ばたに組み立てて置かれた山鉾をやはり2,3回通りすがりに見ただけ。社会人になった年の夏、大阪から一度だけ祇園祭を見に行きました。巡行場面は見られませんでしたが、お囃子を聞きその雰囲気に浸ッたことがありました。父が戦死をして14,15年経たときのことです。

 短い父との生活の中の一コマでした。

(2337)テキ屋

 お盆は過ぎましたが各地で夏祭りが行われているという時期です。京都の大文字焼も昨夜放送していました。典型的な各地からの寄り合い所帯は団地です。地域と同期明日ところ、全く地域と関わらない団地、多種多様。

 もともと畑地だったところの我が家周辺では1週間ほど前に地域の氏神様を祀る神社の夏祭りがあり、小さな神輿がまわっていました。たまたま寅さん映画のビデオを見ていた私はかつてのお祭りと切れない関係のテキ屋のことを思い出しました。

 神社の参道に立てたテント張りの屋台、わけのわからない商品を並べて歯切れよく客を呼び込むかけ声。あの口調は人を寄せ付ける魔力がありました。みんなその地域では普段見ない顔の男です。

 子どもの頃からそばに近づかないよう教えられていても、怖いもの見たさでついそばに近寄ります。それを見つけたテキ屋、「ちょいとそこの坊や、どれが欲しい」なんて声をかけられ慌てて後ろに引っ込んだものでした。

 中学時代は天王寺公園でお祭りでもないのにテキ屋が店を広げていたこともありました。彼らは今でも仕事をしているのかどうか、少なくても我が家近くでは見たことがありません。

 連想するのがつくばのガマの薬売り。腕に刀を当て切れたのか切れていないのか見物客にはわからないのに、ガマの油をちょいとつければたちどころに治る薬といいながら売っていた姿も今となっては懐かしい記憶の一つ。

 こういうところを外国観光客が見ればどういう反応を示すでしょう。東京オリンピックの時に姿を現せば面白いかも。といってもバックにつくも0のがいると恐ろしいことになります。やっぱり危ないものは避けた方がいいにきまっています。

(2336)言葉遊び

 昨日の語呂合わせの話で思い出したのが子どもの頃、やはり記憶力を養うためだったのか、わかりやすい言葉を当てはめて物事を覚えたことでした。歴史年号を「啼くよ(794)ウグイス平安京」のように詩歌の一節として捉え覚えるのです。

 ずいぶん覚え込んだ気がしますが今考えると全くなにも覚えていません。社会に出てからの仕事にもよるでしょうが、私の場合は全く思い出す必要がなく、あの時の努力は何だったのか 社会でどういう役回りをしたのか、あえて言えば大河ドラマを見るときの時代感覚がわかることかもしれません。

 といっても完全に忘れている私、いちいち年表と見比べてこういう時代だったのかと推察する煩わしさがあります。覚えておけば損はなかったのかも。でもそんな程度のもの。

 都道府県名を覚えるのも「山があっても山梨県」というような語呂合わせを教わったことがあります。こちらの方も今はとんと思い出せません。それでも白地図に北から南まですべての県名を明記できるのは自分の足でまわったからだと思います。

 記憶よりも体験が効果のある例です。自分の足で歩いたところは体が覚えてくれています。このことはしばらく間隔が空いてもコースに出れば何ラウンド目には感覚を取り戻しているゴルフなどのスポーツと似ているのかもしれません。

 いくら覚えても使わなければ忘れてしまう記憶、学生時代に覚えてことの大半は忘れてしまいました。高齢とあれば思い出すのも容易なことではありません。

(2335)語呂合わせ

 今の電話機は固定、携帯を問わず殆どの機種で電話帳を登録できます。しかし電話を申し込んでもなかなかつかない頃の電話機はそういう機能がありません。電話機の横には必ず分厚い電話番号簿や知人宅の番号を手書きした紙かノートを備え付けていました。

 よく掛けるところの番号は暗記してしまったので、外の公衆から電話をする際にも苦労せずに指が自然にダイアルを回すほど記憶したものでした。あの頃は認知症予防にも役だったのではないかと思います。

 覚えやすいように語呂合わせを考えたりもしました。商売人は広告に語呂合わせの言葉を書き添えたり、覚えやすい番号を買い取る例もありました。客のほうは語呂合わせの言葉を覚える苦労が多くて難しいのは覚える気もありません。

 まして電話機がよく掛けるところの電話番号を覚えてくれるようになり、出先から公衆電話を使おうとして番号がわからず困ることのほうが多くなりました。私も会社時代に急に自宅に電話をする必要が生じたのにすぐさま番号が思い出せず、同僚に聞いた経験があります。それも携帯時代に入り、今のサラリーマンはそういう恐れもまずないことでしょう。

 趣味として定年後20年あまりも陶芸を習ってきましたが、陶芸の日があるのを知ったのはつい最近のこと。アイスクリームの日だとかなんとかの日、その殆どが語呂合わせで設定されています。

 陶芸の日は10月4日ということです。何故この日が選ばれたのか。陶芸から10月はすぐ気がつきましたが4日がわかりません。調べると昔は陶芸のことを陶瓷(とうし)といったそうです。そこで4日に。

 それにしてもかなり無理をしたなという率直な感想。そこまでして記念日を作る必要があったのか。記念日を作るのは業界を振興させるために無意味だと思いませんが、もう少しわかりやすいものでなければという気がします。

 語呂合わせはユーモアを兼ね備えたもののほうが覚えやすい。覚えにくい語呂合わせはそれこそ無意味なものだと思います。

(2334)ラグビーと弟

 サッカー人気に押されラグビーが今ひとつと思い込まされていた昨今です。やはりスポーツ競技は強くなくては人気が盛り上がりません。戦後初の入学生として入った中学、スポーツといえば進駐軍が持ち込んできた野球。夢中になってルールを覚えたことは今まで何度もこのブログで取り上げてきました。

 ところが学制改革で新制教育が始まり、せっかく入学した希望中学から地元の新設高校に強制転校を余儀なくさせられました。そこは元工業学校。学校ぐるみのスポーツはラグビー。

 私たち転校生はそのルールも知らず体育の時間といえばラグビーになるこの時間が大嫌い。野球好き同士でキャッチボールをしようにもグラウンドをあけてくれません。体育のテストはラグビーで採点されました。

 仕方なくなんとかラグビーに溶け込むようにしました。大阪で働いていた母が雑貨店を開くことになり、高校2年の途中で大阪の高校に転校することになりました。その学校は国体で優勝を争うようなラグビーの強豪校。ここでもキャッチボールやテニスはグラウンドの隅で。結局ラグビーがメイン。

 グラウンドは野球用のバックネットがあるのに外野付近はラグビー用のポールが設けられ、運動部の連中は時間差を設けて練習していたという記憶があります。ホームルームの時間はラグビーの練習になることが多く。嫌でもラグビーのルールを覚え、遊びの時間にはメンバーに組み入れられてしまいました。

 そんなことがあり野球のように好きというほどになりませんが、多少ラグビーの心得のようなものはわかるようになりました。それにひきかえサッカーやフットボールはテレビで何回見てもわかりません。覚えようという気がないからなおさらのこと。

 それなのに大阪の同じ高校に進学した弟は入学してすぐにラグビー選手。その頃私はすでに東京勤務になっていたため、弟のプレーは見たことがありません。たまに一般紙のスポーツ欄やスポーツ紙の大字幕で活躍ぶりがわかる程度。

 卒業後は東京の大学から勧誘され推薦入学。しかし本来の勉強が全く出来ないと1年足らずで退学、改めて大阪の大学に入学しなおしましたが、部活はやはりラグビーに。ラグビーを後輩に教えるということで、就職後も暇を見てラグビーに懸命でした。後輩達が東京で試合があるといってときどき上京。

 残念ながら50歳代で逝ってしまいましたが、昨年から今年にかけての日本ラグビーチームの奮闘ぶりを見るにつけ、弟を思い出すのです。「レバ・タラ」という仮定の話は無駄といっても、今のラグビーチームの活躍と大勢のラグビーファンが生まれたことを、弟が生きていたらさぞかし喜んだことだろうと思うのです。

 ラグビーに無関心だった私も久しぶりにラグビー中継を見るようになりました。

(2333)時差ぼけ

 10月がスポーツたけなわの時と考えていましたが、今は暑さでうだる8月でもテレビはスポーツ中継ばかり。一般紙もスポーツ紙になったのかと思わせるほどスポーツ記録満載。記録はやっぱりテレビより新聞の方がよくわかります。

 朝夕に見る新聞に時差はありませんが、テレビラジオの中継は時差の関係でリオオリンピックは真夜中。中継アナは選手陣の活躍ぶりを絶叫調で伝えてくれます。しかしブラジルが日本とちょうど12時間の時差というのはわかりやすいことも事実。

 昼と夜が違うだけで向こうの夜9時は日本の朝9時になるわけですから。地球が丸く日本の正反対がブラジルという説明が文字通り通じます。日本のトンネル掘削技術を活かし、東京から井戸を掘って貫通させればそこはリオ。そんな夢も描けます。

 日本の標準時は一つ、とはいうものの今朝の日の出の時間は午前4時過ぎの根室から始まり宮古島の日の出は6時過ぎ。日本の中でも正確に見れば時差があります。アメリカやロシアのように東西に長い国の時差調整は選挙などにも影響し、大変なことだと思います。

 海外旅行で聞くのは「時差ぼけ」。私の海外初旅行はマニラ行き。せいぜい1時間の時差。ぼけるほどのものではありません。同じようにシドニーに飛んだときも夏と冬の逆転はありましたが、時差は感じません。

 アメリカ西海岸の時も夕方の便で現地に昼前の到着だったと思います。機内で寝てしまったため時差ぼけの経験をせず。そういうことに慣れればヨーロッパの時も同じ。時差ぼけには寝るのが最善と自分なりの解釈。

 むしろ深夜のオリンピックをテレビで見るほうが苦痛。もっともたいていの場合途中で寝てしまっています。時差で困るのは結局テレビ中継が深夜にまたがること。どこへ出かけたわけでもないのに無性に睡魔が襲います。

(2332)リオオリンピックと高校野球

 忙しくなりました。リオのオリンピックと甲子園の高校野球。昼も夜も寝られない。勤めていなくてこれですから勤めている人はもっと大変。とくに母校などというようにちょっとでも出場者と関係のある人ならなおのこと。

 今回のオリンピックは南半球。今は冬にあたるから向こうの夏、日本の冬場開催かと思えば北半球と同じ8月開催。まともに甲子園とかち合いました。時間差があるので同時間というわけでありませんが、テレビ観戦者は夜も昼も。それほどスポーツに打ち込む方でない私はそれほど気にしませんが。

 オリンピック、いつも変わらず放送はメダル、メダルの連呼。選挙放送みたい。選手は肩が痛くならないかとまた余計な心配。でもやはり日本がメダルを取れば素直に喜ぶ私。日本人なら当然かも。あまり大騒ぎをすると期待された選手が可哀相。

 今回は注目されていた選手がそれなりの成績を残していますから喜ぶべき現象です。しかしやっぱり銅だったと泣く選手。メダルが取れて泣いたのか、金でなかったから泣いたのか、それは本人に聞かねばわかりません。しかし一観衆としてはメダルを取ったことを素直に喜んであげねば。

 ラッキーゾーンを設けていた甲子園はいつの頃から火それが取り払われてしまいました。それでも直接スタンドに打ち込む選手が多くなりました。ボールが飛ぶようになったこともありますが、選手の力も備わってきたのだと思います。

 いずれにしても熱い戦いはまだ序盤戦。いつもにまして暑い今年の夏。ますます熱くなります。涼しいはずの水泳を見ても一向涼しく感じない今年の夏です。

(2331)我が身つねって人の痛さを知る

 国民学校時代に教えられたこと。軍人になるための教育が推し進められたときですから、あまりいい思い出はありません。ところが不思議なことにこうしたしつけ教育を忘れないのです。今でも通じることだからでしょう。

 学校に入れば雨の日も傘をささずに立つ二宮金次郎の銅像。当然彼のことも真っ先に教わります。

 考えてみればみんな現代にも当てはまるようなことばかり。「思い起こせよ梅の花」ではないけど、格言をいろいろ分析してみるのも面白いかなあなんてことを考えてみたり。

 「働かざる者食うべからず」も一億総活躍時代になれば必要な格言かなと考えています。

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