(2540)介護日誌 9

 ごみの回収が有料化されたのは平成25年11月。燃えるごみと燃えないごみが対象でそれ以外に危険物、紙、プラ、布等々ずいぶん細分化され、いまだに時々異物混合のため回収できないと置いて行かれることも何度かありました。懸命に協力しているつもりなのに。

 それまでは決められた集積場に運ばなければならなかったのが、各戸の前に置いておけばいいのですからその点は楽になったのですが。

 妻はこの方式に変わったことがわかっていません。すなわちこの頃から病状がでていたといえます。反面集積場に運んだのは数度しかないという記憶があるのは、それまで妻が運んでくれていたからです。

 すなわち彼女と病の戦いはこの頃から始まったわけです。日を追うごとに深刻な状況に。私の母がガンと闘っていた頃を思い出します。弟もガンとの闘病がありましたが母のほうが長い戦い。それでも最期を迎えたのはどちらも発見から1、2年前後だったのですから妻のほうが長引いています。

 しかもやっかいなことに、ガンは早期発見と適切な治療を受けられれば回復の可能性が出ています。もし母や弟が今の世まで長らえていればあるいはということも考えられるのです。

 一方妻の場合は今のところ治療法が確立されていません。これがもう少し後に発症しているのであればとつい考えたくなります。仮定の話をいくら繰り返しても仕方ないことなのですが。

(2539)もしも逆だったら

 ラジオの朗読で舌切り雀を聞きました。幼児時代絵本で読んだ話と全くイメージが違います。もちろんこの話を聞く私の年代が違うということがあるのかもしれません。その証拠に余計な雑念が入ってくるのです。

 その一つにもし最初に出会ったお爺さんが物語のように良い人でなく悪いお爺さんだったらどうしたでしょう。雀を捕まえ焼き鳥にしたかもしれません。それよりも前に雀がお礼の葛籠をくれると知らずに追い出していたかもしれません。その方が雀も焼き鳥にされずに済みます。

 桃太郎のおとぎ話も川で流れてくる桃を取り損なっていたらどういう結末になったのか。そういう逆の発想を幼児の時には考えもしません。もっともそれは私だからで、他の頭のよい子だったらそんな発想が湧いたかもしれませんが。

 今の年代になって考えればそのような逆から見ることが案外多いように感じるのです。選挙も然りです。あの人でなくこちらの人を選んでいれば世の中はどう動いたのだろうなんて。

 今総選挙で人の多いところを選挙カーが駆け回っています。いつも感じるのはこういう時だけみんなの前に顔を出すのに、選挙が終わってみればそういう人の顔は落選、当選、いずれも殆ど顔を見ることがありません。

 当選者のうちのいくらかの人は国会中継の中で顔を見ますが、それはほんの僅か。何百人もいる議員なのに、電車でも町の中でも顔を見ることがなく、もちろん投票したことへのお礼などはありません。

 それだったら違う人に投票すれば良かったと何度悔やんだことか。当選者も身内の人となら当選祝などをしているかもしれませんが、一般投票者のことは忘れて駅頭で感謝の演説する姿をまず見ません。もし落選者がすべて当選し、当選者が全員落選という事態が起きたらどういうことになるのか見てみたい。そんな気にもなります。

 それにしても世の中は何時の代でも一旦決まれば流れは一方的。たまには逆流現象があってもよいのに。

(2538)階段と怪談話

 秋がなく夏と冬が交互に顔を出す今年の秋、もう着ないだろうとしまい込んだ夏物の衣類を慌てて引っ張り出す今日この頃です。こんな調子ではモミジどころでなく、天候の階段は怪談になったような。

 気候の話とは全く関係がありませんが、ミサイルの恐怖が怪談の最先端を走ったようで寄席で聞くような怪談は全く放送で聞く機会がありませんでした。ぞくぞくっとする夏の背筋。暑さが吹き飛ぶのにミサイルでは熱くって。

 定年退職をして20年以上も経ち、東京駅や新橋駅の階段を1、2段飛ばしで駆け下りる元氣はもうありません。今そんなことをすれば転倒しなくても足の骨がショックで折れてしまいます。

 そんなことが気になったのも先日受けた健康診断の結果が良くなかったからです。栄養、とくに鉄分が欠乏しているとの診断で不整脈と相まって、貧血がかなりひどいということ。しかも栄養摂取以外に治療法がないとまでいわれると。

 確かに足はつる、早足で歩きたくても息が切れる、歩けば少しの段差でも靴を引っかける。それでいて息が弾むというような自覚症状が出てきています。年齢のせいと考えていましたがそういう単純なものでもないらしい。

 こういう話のほうが怪談より恐ろしい気がしてきました。

(2537)仏壇のお供え

 大邸宅でもない我が家の仏壇は形ばかりのちっぽけなもの。両親の実家のものと比べものになりません。しかし如何に大人物でも亡くなれば小さな壺に入るだけ。問題は形の大小でなく心の支えになるかどうかだと思います。

 独身時代は母が小さな仏壇を守ってくれていましたが、世帯を持てば長男の私がお守りをしなければと、母のところにあったものより小さめの仏壇を持ち、朝晩に線香を供えています。開眼法要に来ていただいたお坊さんから、仏さんは水と線香を好むので欠かさないようにと教えられたからです。ご飯などの食べ物は仏さまから頂くという意味があるとも教えられました。

 そこで思い出すのが母方の祖母の教え。御前にお供えするご飯はつぎ足さないこと。1回で盛りきるように教えてくれました。一方我々生きているもののご飯は必ず2回以上しゃもじを使い、1回きりで盛ってしまうことは絶対にしないこと。そういう時は形だけでも良いからと。

 そういう風習が身についたのか普段から何気なくよそっていてもそういう入れ方をしています。小さい時に教えられたこと、意味がわからなくても手のほうがそういうように動いてしまいます。

 こうした教えはそれぞれ意味があってのことと思いますが、もうそのわけを聞くことは出来ません。しかし食べてすぐ寝ると牛になるとかいうように案外大事なわけがあってのことだろうと言い伝えを守っているのです。

(2536)介護日誌 8

 2015年の2月頃、ともに近くのスーパーに買い物に出かけると道であった人に会釈をする。なんでも会社で良く会う人だが名前が思い出せないと私に聞く。その会社に勤めたことがない私に思い出せるわけがなく、何より会社を辞めて20年も経過しているのによほどの親友でない限りお互い覚えているというのがおかしい。

 まだ介護になれない私はついそういうことを指摘するのだが、あとで主治医にそういう病気だからいちいち反論しないよう注意を受けてしまう。

 夕食を支度するときも寝室に閉じこもり、手伝って欲しいと呼びに行けば姉夫婦がキッチンを使用しているからと降りてこない。姉夫婦も彼女の実家や外で待ち合わせたりはするがお互いの家庭に顔を見せることは久しくないのだが。

 3月には一人で出かけたカラオケ会場からの帰宅途中、道がわからなくなり持っていた携帯のかけ方も忘れて、やっと見つけた最寄り駅でやっと帰宅コースを思いだしたと、かなり遅くなってから帰宅した。心配して電話を呼んだのだが通じないのも当たり前。携帯の使用法を全く忘れてしまったらしい。

 初夏にかかる頃には夜になってから帰宅すると自分の衣類、化粧品を纏めだしたり妙な行動をするようになった。

 旅行に連れ出せば多少雰囲気が変わるかと考え、北陸新幹線を利用しての黒部アルペンルートをまわることに同意したので長女にも同行してもらって久しぶりの家族旅行。道中は楽しそうだったが帰宅後かなり疲れたらしく熟睡。娘からは今後付き合わないと宣言されるほど迷惑をかけてしまった。

 介護認定も下りたので週1回のデーサービスを担当のケアマネに依頼した。クリニックの看護士、ケアマネ達が私の体が細って来たと心配してくれるほどズボンもだぶだぶ。

 秋になると朝が遅く夜は遅くまで床に入らないようになった。本人自身が自分の頭が壊れたというように思考力の衰えが目立つようになった。

(2535)介護日誌 7

 2015年1月、間もなく私の誕生日が来るため免許証更新の案内が来ている。高齢者はゴールデンカードでも3年に一度の書き換え。家内の問題があり遠出をしなくなった自分に運転の機会がなく、前回からの3年で一、二度レンタカーを借りた程度。

 それならこの機会に返上してしまおうと家内を連れ小金井の試験場に行く。50年近い運転歴。全くの無事故無違反。窓口などで何度も本当に返上するのかと確認された。

 混雑のため順番待ちが多い。途中トイレに行きたくなるが家内に呼び出しを聞いててもらえた。家内も自分の用を足したりしていたが、待ち合わせ場所に戻ってこられた。

 それなのに一人で出かけた1月下旬のカラオケサークルの会、会場の公衆電話を借りて「持参のショッピングバッグと財布をトイレで無くした」という。会場に駆けつけると。会場の事務員、サークルメンバーも一緒に館内を探してくれていたが見つからず。

 やむなく私が交番に紛失届を提出して帰宅すると、家内のカラオケ友達から電話があり男性用トイレから紛失物が出てきたということ。本人の記憶がはっきりしないので正確なところはわからないが、男女のトイレを間違えたのだろうという解釈で一件落着。

 この頃になると朝の機嫌良さから夜になると「家に帰る」と不機嫌な姿を見せるようになった。先ほどまでいた自分の親兄弟がどこに行ったのかと問い質したり、今いるところが勤め先だという思いがするらしい。

 会社を休んだ娘が同伴し私と3人で脳神経外科に行ったが、訪ねる院長が出張のため代診の先生が診察、直ちに「典型的なアルツハイマー病」と宣告し薬を処方。次に診察を受けたときに院長から「出来るだけ薬を押さえてきたが一度飲ませたなら後は続けるしかない」。

 そんな経過を見ながら翌月市役所に介護認定の申請を提出した。

(2534)トイレ今昔

 駅のトイレも都市部は殆ど水洗に入れ替わっています。汚い代表だった昔の駅構内トイレに比べると天国のようなもの。小さい時の我が家で覚えているのは浜大津時代。汲み取り式で月に一、二度汲み取り屋(あの頃は汚穢屋といっていたような気がします)が来てすくい取って行きました。

 怖くて夜一人で行けなかったのが農家の便所。住宅と離れて別棟になっていました。真っ暗な庭を横切って行かねばなりません。風呂もその棟にありました。風呂のほうは五右衛門風呂で子供一人は危ないと大人が付き添ってくれましたが便所は頼まねば付き添ってくれません。

 家内の実家も農家、結婚後間もなく義姉が亡くなりお通夜から葬儀に書けての泊まり込み。便所は父方の実家同様離れになっています。寒いときで暗い庭を渡るのは大人になっても気持ちが悪くて。

 疎開先は山の傾斜を利用した建築のため便を貯めるツボは10メートルほど下。便を落とすと暫くして歩タンという音が跳ね返ってきます。帰り便を浴びないのは良かったけど高さがあって落ちないか心配で。大津の家なんかは勢いよく便を出すと跳ね返ってくることがありました。

 転居を重ねているうちにトイレもたとえ日本式でも下が見えないような便器に、水洗化したあと洋式になり便座が付いてかがむ姿勢が楽になりました。

 国民学校では男子用は一列に横並び、大勢が同時に用を足せますが大きい方をしたくてもみんなが見ていると思うとなかなか入りづらい構造。横並びの小用用はフィリピンやアメリカの遊園地にある公衆トイレで生きていました。それもかなり前の話ですから今は?

 アメリカでも西部劇に登場するような町のトイレが、形ばかりの鍵がかけられてもドアの半分は外から見られる構造。和式であっても外から絶対中が覗けないのに慣れた日本人には奇異な感じが。

 ウオッシュレットを導入して20年近くなり、すっかり使い慣れると外に出かけたときつい洗い流すのを忘れることがあります。すぐに戻って流しますが、慣らされてだんだん行動がズボラになっているのかもしれません。

(2533)煙管

 タバコは自販機などで売っているのに吸う場所がどんどん制約されています。ついに家庭内も子供がいるところは禁煙にする条例を検討する自治体も現れたとか。それでもタバコの売り上げが減ったと穴埋めに苦心するところも。

 それはともかく、パイプタバコを吸う人はたまに見かけますが、煙管を見なくなりました。長い管の先に刻みタバコを詰めて吸っていた母方の祖父。いかにもうまそうに。

 すぐにタバコがなくなるのか、次のタバコを詰め替えるのに今吸っていたタバコを掌に置き、新しく詰めた煙管を掌に置いたタバコから火を取っていました。祖父だけでなく当時煙管タバコを吸っていた人の多くがこういう方法で火を移していたという記憶があります。子供の私はそれが不思議でなりません。火傷をしないのか。

 中学の頃、キセル乗車をする人がいました。乗車、降車の駅から至近距離の切符を買い、間の切符は持たないのです。中間が抜けているのでキセルといっていましたが、当時の闇屋などがよく利用していたようです。両端の定期券を持ち真ん中は無賃乗車。

 学生仲間にもそうした行為をしたのがいましたが、駅からの通報があり当事者は停学を申し渡され、そうした輩はすぐ消えました。キセルの火が消えれば廃れるのが当然かもしれません。タバコもいずれそうした事態になるのかもしれません。

(2532)年寄りの教え

 考えてみれば祖父母からいろんなことを教わっています。やはり疎開などの関係で身近な母方の祖父母からです。

 戦時中は食糧自給のため山を切り開いて芋など山地でも育つ野菜を植えました。農作物についてなら本当は農家だった父方から教わった方が正しい方法だったかもしれません。しかし山地ならではの事柄もあります。

 鍬で土をならすのですが楽なのは自分が鍬より下に位置し、土を掻き下ろすことです。でもそれは御法度。なぜなら土がすべて下に下ろされいずれなくなってしまうというのです。そのため自分は必ず上に回り、下の方の土を掻き上げなければならないのです。

 旅館業というためなのか、敷居は絶対踏まないようにとも教えられました。もちろん着物の合わせ方なども。着付けで男女の違いもその時に習っています。

 小世帯化が進めばこうした教え方が出来ないのも当然。今時の親がしきたりを知らないためその子供はなお知らないで成長することになり、昔からの風習が途絶えてしまうことになっても致し方ないのかもしれません。

(2531)家賃

 先日のニュースで今年の基準地価が発表されていました。身を以て感じないどころか、高齢者にとっては徐々に締め付けられる思いがしているのに、都市部の路線価は上昇しているとのこと。喜んでいいのか悲しむべき現象なのかよくわかりません。

 土地の値段は不動産価額に反映され、ひいては家賃にも響きます。

 私が上京した昭和34年、まだ闇市などが健在な頃ですから住宅事情は逼迫していました。支所に入った代々木のアパート、風呂無し、キッチン、洗濯場、トイレは共用。それで六畳3000円。当時の私の給料は1万円前後。

 3ヵ月ほど経て当選した公団住宅の単身者用は風呂、トイレは共同、キッチンが靴脱ぎ場についた畳4畳に板の間2畳分ぐらいの広さで3000円。5年後結婚することになり小世帯用に代わって6000円。長子を出産して世帯用に替わって1万3000円。3万、6万と暖地を転居する度に家賃は倍々ゲームでした。

 確かに給与も上がり支払いは出来ましたが、すでに100万以上の投資。それで畳一枚自分のものにならないのは不合理と決めたのが分譲住宅の購入。そうして1軒家を入手するまでになった経過を思い出します。

 自家所有になればメンテナンスは自己負担。当然です。家賃不要になってもこのメンテナンスが結構大変。家賃を払うのと同じことと考えれば割り切れるのですが、一家の主になるのも大変なことだと思い知らされました。

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