(2420)医師と漢方

 母から聞いたことがあります。父は私を医師にしたいと。道理で父は生前、私に上の学校に行けばドイツ語を習えと言っていたわけです。当時の医師は私の知る限りみんなドイツ語でカルテを書いていました。学生時代に医師が英語のカルテを書いているのを見て驚いた記憶があります。今は英語より日本語でパソコン上のカルテに書き入れていますが。

 医学はドイツがよほどすぐれていたのだと思います。私は自分の進路が定まらないうちにとりあえず第二外国語はドイツ語を選びました。多くの友人はみんなフランス語。しかし私はフランス語がわからずラジオの外国語講座で1年間、フランス語を習った程度。学校のように強制されない通信講座では本人にやる気がないと覚えられません。

 いずれにせよ医師は西洋医学を修得しているものという思いを強く感じています。定年で退社する頃から医院の前に漢方と但し書き付きの看板を見かけるようになりました。ところが漢方の医師というのは、という気が先入観としてあったのは否めません。

 疎開時代に腹を壊せばすぐ「マクリ」「ゲンノショウコ」といった、山に生えている山草を煎じて飲まされており、それが漢方だという考えを持つようになっていました。だから医師はそういうものには頼らないという考えが強かったのです。

 会社員生活を終えてから近所に出来た医院で健康診断を受けました。医師は「うちは漢方も扱っている」と漢方医学の特徴を教えてくれました。それを聞き西洋医学が進んでいるというより漢方と西洋医学の融合という現実を知らされたことがありました。

 たしかに私自身、意識しないまま家庭薬の胃薬は漢方。そういえば先日妻が鼻声になっていたのでかかりつけの医師の定期診断でそのことを話すと、じっくりなおすのに最適と書いてくれた処方箋は漢方の風邪薬でした。

 気がつけば私自身も家庭薬の風邪薬、最近は漢方処方のものを買っていました。先入観にとらわれず、用途によって使い分ける必要を感じています。

(2419)ドンド

 正月があければドンドをやったのは子供時代の話。広場がないので道路幅の広がったところに正月飾りを集めて燃やしたものでした。その下にサツマイモを埋めて焼き芋を。のんびりした時代でした。

 たまたま車が来ればその場を避けて通ってくれました。知り合いの人であれば車を止めて暖を取ったりして。今だったら交通の障害になると叱るお巡りさんも寄ってきて世間話に入り。

 そんなところからみんなが顔馴染みになったものでしたが今は冷たく、法律の定めを忠実に実行するばかり。交流の温かさがなくなり、子どもたちまでとげとげしい雰囲気。

 もっとも今時場所を選ばないで昔のようなことをすれば火災、空き巣、交通の麻痺などトラブルが続出するでしょう。

 ドンドは神社かお寺の境内で。それもガードマン付き。焼き芋どころかお札でも係の了解無しに放り込むのは禁止。それもプラスティック製品のお札や正月飾りが増えて有害ガス発生の原因になると言われればなるほど。

 そもそも日本古来の正月飾りは本来松や竹、紙など燃やせる材料で作られていたのに。しかし自分で作れず市販のものを買って飾ればみんなプラ製品。ルールを守らねばなりません。

 手軽に正月飾りが出来ますが一方、本来の意味合いがわからないままになってしまいます。もっともクリスマスから正月、宗教的色彩がどんどん薄れ、ただ休んで遊べる時ということだけでも今の日本では意義のあることなのかもしれません。

(2418)罰が当たる 罰を食う(バチ、バツ)

 ネットで問い合わせる疑問。私もたびたび利用させていただいています。私の場合は雑学的なものが多いのですが。したがって回答に過誤があってもとくに問題視するようなことはありません。

 それにしても皆さん、私と同じような疑問を持っておられるのがよくわかります。その一つが今回テーマにした「バチとバツ」。漢字では同じ文字を使うのになんとなく両者の意味が違うように感じます。

 「食べ物を捨てるとバチガ当たる」と子どもの頃から聞かされました。最近のように食べ物屋が増えると作り置きの品、食べ残し、売れ残り。捨てられる量が半端でないと新聞などは伝えています。関係者はみんなバチガ当たって当然。

 一方では世界と交流が激しくなり、犯罪も世界的。昔のようなコソ泥でなく昼間大胆にピストルや刃物を持った刃傷事件が続出。犯人をつかまえて罰してもそれほど効果がないのかすぐに類似犯罪。この場合はバチでなくバツ。

 このように並べればバチは人の裁きでなく神さんのような人と違った大きな者に裁かれ、バツは人が裁いた結果と考えられます。ネット回答も同じような意味のものが多く見受けられました。

 海外ではどういう用語が当てはめられているのかわかりませんが、下るかくだらないのかときどきそんな疑問を感じてはネットでみんなが同じ疑問を持っているのか確かめるのも楽しみになってきたりして。いろいろあっても世の中太平の証拠でしょうか。

(2417)合意と確認

 新年を迎え通常国会開会も近いのに首相は忙しく海外諸国を訪問してまわっておられます。たしかに鎖国時代の名残か海外との交渉が不得手な日本は欧米諸国と互角に渡り合える力が必要です。個人的感想として歴代首相に比べ積極的に海外に飛び出す首相の姿勢は評価できると思います。

 そこで報道を見る限り、各国首脳との会談で「確認した」「合意した」という表現の多いことが気になり出しました。単に確認し合うだけ、合意するだけだったら電話会談でもいいのではないかと。それとも速記録か何かの文書を残さねばならないと言うことだったのか。

 合意や確認がなければ物事は前進しません。そうしたことをベースに次の実行が生まれるのですから。その点今までの所、確認や合意だけでその先が欠けている気がします。

 昨年末も米国の次期大統領と意見の違う現大統領、両者に立て続けに会って合意、確認しています。その内容はわかりませんが、違う政策の持ち主それぞれと合意、確認できたという意味が凡人にはわからないのです。

 昨年12月にNHKが「東京裁判」をドラマ化し4回にわたって放送しました。戦争に関わった各国から送り込まれた判事達の心の動きを描いていましたが、違った考えを持つ人たちを一つに纏めることの困難さを感じました。

 こういうものを見るとお互いに合意、確認を絶えず取ることが必要と思います。しかしそれだけの繰り返しは?サミットなどの場もあることだし。

 やはり外交はいろいろ伏線があってわかりにくい。我々が人と会っていろんな折衝をする時にも思うことなのですが。

(2416)トップより2位がいい

 こういう意味の宣伝で名を売ったアメリカのレンタカー会社がありました。当時面白い広告だと思いながら眺めていましたが、考えてみれば現代の教育にも言えることだと思います。含蓄のあるコマーシャルだったと思い返すのです。

 日本に限らず、お隣の中国や韓国も子供の教育に異常なくらい親が懸命になっているとのことですが、結局勉強をするのか、させられるのか、いずれにしても子供本人の気構えが問題。

 「ああモーレツ!」でヒットしたコマーシャルも記憶に残りますが、トップを走るより一番を狙える位置で二番手のほうが目標があってよいのかもしれません。先頭を切っていれば目標がなく後ばかり気になる。マラソン中継を見ながら感じることです。

 かつて「長の名が付けば相談する同僚がいなくなる。あとは一人で考えるだけ」と上司に教えられたことがありましたが、決して間違った言葉ではないと思います。
 

(2415)衣類のタグ

 通常市販されている衣類にはサイズ、材質、洗濯上の注意などを記載したタグが付いています。肌に直接接するとかゆみを感じることがありますが、これがないといろいろ困ることがあるのも事実。

 一人者時代に気付かなかったタグのつけられている位置、結婚して家内に必ず後ろ側に付いているからそこを注意すれば前後ろを間違えたりしないと教えられたことがあります。丸首のシャツなんかは慌てていると後ろ前に着てしまったりすることがあったからです。

 ところが最近のようにアジア各地で縫製されるようになるとこのルールが崩れてきました。メーカーは海外に発注する際、日本のしきたりを連絡していないのでしょうか。またタグの付け場所は世界共通のものではないのでしょうか。

 新しいパジャマを着ようとしてズボンのタグを後ろに持って行くと前が開かず、後ろに前開き部分が回り込んでいました。生産地は東南アジアの国でした。もちろん気がついてタグの付いた方を前に。これからは単純に昔聞いたとおりにしないで、自分で確認しながら物事を進めなければ失敗する。そんなことを学んだのでした。

 現実にタグが横に付いている場合は必ず左側と言っていたのに、右に付いているのを見て一概にこうだと言えなくなったと戸惑った様子。結局自分で確認するのが間違いないと言うことに。

(2414)地図

 父が持っていたドイツの世界地図は地球儀を開いたような展開図が示されています。私が学校で地理を教わった時の地図帳も初めのページは同じような展開図で始まっていました。

 父がドイツで発行された地図を手にしながら私に世界は球形になっており、東へどんどん進めば今のところに戻ってくるという話を聞かせてくれました。というのも八戸だったか、浅虫だったかの海岸で水平線が丸いと言って騒いだのが基だったと思います。

 自分でも子供を持って同じような経験をしていますが、子供は親が予想していない質問を突然浴びせかけます。しかもそれに答えないとすぐごねてしまったり。といって親は自分の専門外のことに疎いもの。そのことも自分が大人になってわかることです。
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 とにかく自分の足下をどこまでも掘れば地球の裏側に出るとか、真っ直ぐ進めば今立っている場所に戻ってこられるなんて。地球が大きいのか小さいのかわからなくなって頭の中はパニック状態。そんな覚えが。

 理系の父でも土木工学の世界に生きていたのでは天文学はわからなかったと思います。しかしどういうわけかドイツ発行のこの地図と父の説明、よく考えればおかしいところがあっても子供の疑問に答える内容でした。

 それ以来世界地図を見れば最初のページにある地球儀を切り開いた形の地図をまず眺めたのに。最近の刊行物ではこうした形でなくただ四角く左の端に大西洋、右の端も大西洋という平面的な地図が掲載され、丸さを感じさせる仕掛けがありません。あえて言えば緯度、経度線に偏りを作り地球の丸さを想像させたり、北極、南極の上空からの俯瞰図が示されたりしています。

 丸いものを平面に示すのはそもそも無理があるのですから、編集者が苦労するのはやむを得ないかもしれません。しかし出来るだけ子供の疑問に答えるものであって欲しいと思うのです。

 そうしたところでもっとわかりにくいのが天体図です。現在の科学でも銀河系の外まで見通すことが出来ていません。それを図示するのが無理とわかっていても子供の質問に待ったをかけられないのが普通。さて父だったらどういう返事を返したか。

 今の私に肉眼で見られなくなった天の川、あの向こうに何があるといっても全く答えようがありません。不思議な世界です。プラネタリウムを見たのは最近でどこか日本で開かれた万博の時。したがってそれから何十年経た今はいくらか進歩した星空が見られるのかもしれません。

 ときどきネットで星座を見ますが、黒い空の向こうに何があるのか、私の生涯の中では見られないと思いますが、なんだか夢があるような、恐ろしいような。そうした奥行きのある天体図を見てみたい。子供でなくてもそういうのぞみがあるのです。

 地図一つからでもいろんな発見があると思います。

(2413)事故通報

 最近の火災報道を聞いていると発見者が消防署員でなく、一般市民からの通報で消防車が駆けつけています。私が東京に来た頃は支社の近くに建て替えられた消防署に火の見台が設けられ、終日署員が見張っていたのに。

 当時新しく建て替えられた消防署は3階建て。その上にタワーが設けられ火災発見に備えていたと記憶しています。火災発見時はけたたましいベルの音、支社まで聞こえてきました。すぐに消防車がサイレンを鳴らして飛び出して。

 近辺が高いビルで囲まれた現在、通算30年以上勤めた上に20年以上経過しているので、恐らく消防署も再度建て直したか、どこかに移転していると思います。当然火の見櫓は設置されていないことでしょう。

 大都市でないと思われる地方でもニュースは「通りかかった通行人からの連絡」「近所の人からの通報」で消防車が出動したと伝えています。さらに発見者や近所の人が撮影したという映像まで付け加えて。

 列車事故や交通事故もこのようなケースが増えていますが、事故発生の1報、関係先への通報経路が様変わり。陰にはスマホのような連絡手段を一般人が手にしたことで、過去の姿が1変したようです。

 文明の機器もこのように社会に役立つ形で利用されるのは喜ばしい現象だと考えます。

(2412)子供は風の子

 このところ寒い日があれば暖かい日が続いたり、とにかく正月3が日の東京は穏やかすぎるぐらいのどかな日が続きました。まずは慶賀の至り。

 それにしても河川敷など特別な場所は別にして、市中での凧揚げやコマ回しなどをして遊ぶ子供の姿が見られません。聞けばスマホなどでゲームを楽しむ子が多いそうです。ゲームも昔は子供雑誌の付録に付いた双六やかるたで遊んでいたのに。

 しかし相手の姿が見えないところでゲームをして楽しいのかな?我々世代の子供時代は相手を打ち負かせて遊んだものなのに。相手より高いところに凧を揚げて喜んだり、相手のコマに自分のコマを当てて勝負を競ったりしたもの。

 高層住宅に住めば友達通しが顔を合わせる時間は限られ、路上で遊ぶのは危険。公園は狭く学校は通常管理者の許可がなければ立ち入れません。結局遊び場がなく室内ゲームを楽しむしか方法がありません。友人との付き合いが限られるのも仕方がない。

 今さら昔のように子供は風の子とか言っておられません。これも時代だと諦めるしかないのですかね。

 そういえば洟垂れ小僧というのも見られません。半世紀も前なら外に出れば都心の公園でも鼻を垂らしながら遊ぶ子どもたちを見かけたものです。その頃は鼻紙をポケットに入れておけばいいのになんて考えながら通り過ぎましたが、母親が付いていれば子供の鼻を拭っていました。

 むしろ子供は鼻を垂らしながら遊ぶものと決めつけるぐらい当たり前の世界でした。自分のことは覚えていませんが、恐らくそういう姿を大人達に見せつけていたんだろうと思います。

 除夜の鐘がうるさくて眠れないと苦情が出るような世相、保育園の建設も騒音が増えると反対する人たち。子どもたちも鼻を垂らしながら遊べなくなったのかもしれません。

 洟垂れ小僧といって軽蔑した頃の世相、それが懐かしく感じられる不思議さ。人の考え方は時代と共に変わるもののようです。

(2411)バカは風邪引かぬ

 こんなことを聞いたのは東京に来てからだと思います。関西でもこういう諺はあったと思いますが自分の記憶にはありません。

 東京でひとり暮らしを始め、風邪を引いてひとり独身者住宅で寝ていても誰も助けてくれない。それなら会社に出ていたほうが万一の時に助けてくれるなんて勝手なことを考え、休まないようになりました。

 支社の人数が少なく、内勤者がいないと外勤者が内勤にまわらなければなりません。たとえ風邪でも出勤してくれた方が助かるというので、万一に備え宿直室を開けて対応してくれました。

 おかげで風邪も会社の嘱託医から薬をもらって治癒してしまいました。結果として風邪も引かないようになり、至極健康な体になると「バカは風邪を引かないから」と失礼な言葉が上司、同僚から。今だったらハラスメント騒ぎになるところ。

 簡単にバカといってくれますが、馬や鹿は失礼なと文句をいっているかも。といってもこうした動物、風雨の中でも働かされたり野ざらしの中での生活を送っていても丈夫。風邪を引かぬというのも過言ではありません。

 というわけで年末に少し熱が出ましたが医院は正月休み中。市販薬で無事正月を乗り切りました。「病は気から」という諺も間違っていないようです。しかし「風邪は万病のもと」ともいいます。気をつけるに越したことはありません。

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