(2392)VOAとFEN放送

 忘れていました。VOA放送やFEN放送のことを。VOA放送は「アメリカの声」と翻訳されているようにアメリカの海外向け宣伝放送です。それを承知の上で英語を聞く耳が養われると信じて学生時代によく聞きました。実際はそう簡単なものでなかったのです。

 いきなりあの早口言葉を聞いても全く聴取力がついて行きません。中学に入学し、初めて英語の授業を受けたときは、その先生がゆっくりと話してくれました。「This is a pen」という口調だと思いラジオを聞き出したらとんでもない。たまたま放送内容が野球だったのかも知れません。何が何だかちんぷんかんぷん。平川英語は真面目に聞いたのに。

 日本語でも野球中継はかなりの早口。それを英語で聞けば?それならと次に聞いたのはジャズだったか、日本の放送でも時たま聴くようなメロディー。それでも紹介のアナウンスは良く聞き分けられなかったと言うことだけ覚えています。

 それでもBGMのつもりでダイアルを合わせていました。東京に来てからも聞くというよりBGMのつもりでラジオのダイアルを合わせて流しっぱなし。いつの間にかFEN放送に局名が変わっていました。

 新聞のラジオテレビ欄にもFENという名でタイムテーブルが掲載されていましたが、私が会社を辞める頃にはラテ欄の番組表から消えていました。しかしダイアルを回すと今でも日本での放送は続いているようです。ただFENの名は無くなりAFNというようです。

 新聞にときどきタレントの紹介がありますが、そういう中にアメリカ音楽を歌うような歌手の多くがFEN放送で英語を学んだとか新曲を覚えたという発言を見ますが、こういう目的があれば英語放送も熱心に聞き。自分のものに出来たでしょう。

 ただむやみに聞くだけではなんの役にも立ちません。目的を定めて懸命に取り組む姿勢が私には足りなかったと反省するのです。

(2391)スクーターとサイドカー

 いつの間にか見なくなりました。50C.Cのスクーターやバイクの横に同乗者を乗せる車が付いたサイドカー。

 スクーターはその辺のスーパーに買い物に出かけたりするときにも便利な乗り物。もっとも大きな荷物になると載せ場所がなくて困る代物でもありましたが。私は時の上司が不要になったから欲しければあげると言われもらい受けました。便利さから一度買い替えましたが、その後はマイカーを買ったため処分してそれっきり。

 その頃はスーパーの買い物などによく利用した乗り物です。しかし免許証が必要なので今はたとえ有っても免許を返上した私は乗れません。今買うとすれば電動補助自転車ということになるでしょう。

 最近近くのスーパーに行ってみるとスクーターの姿は全く見られず、駐輪場には電動補助自転車が増えてきました。定年退社後しばらく手伝った店でこの自転車を借りたことがありますが、普通の自転車では息切れがするほどの登坂を平坦路同様の踏み方で軽く登れる魅力に惹かれました。しかし当時はまだ高価でちょっと手が出るものでなく諦めました。

 サイドカーを初めて見た記憶があるのはまだ大津にいた頃。今は坂本線と連絡する駅舎ができていますが、その頃は一般の路面電車同様路上にコンクリートのホームだけがあった京津電車浜大津駅。その横をすり抜けるように轟音を出して取り過ぎた憲兵のサイドカー。戦時色が出てきた時代で憲兵と書かれた赤い腕章をつけた姿が不思議と忘れられません。

 憲兵はお巡り以上に怖い存在と教えられていたため、じっと見つめるところまでは出来ませんでしたが、あのサイドカーには乗ってみたいと思ったものでした。戦後進駐軍のMPがサイドカーを乗り回していましたが、あれは吉野で見たのか大阪で見たのかがはっきりしません。どちらにせよやはりMPの腕章。サイドカーは憲兵に似合うのでしょうか?

 進駐軍と言えばジープ。戦後の町を駈け抜けるジープに憧れたこともありました。たまたま母の知人がどういうことで手にしたのか乗ってきたジープに乗せてもらい、途中少しの間運転をさせてもらったことがありました。

 教習所がなく免許所持者が同乗して路上で運転技術を教わるような時代でした。ジープが階段を上りきったというような新聞記事も見ました。今では許されないようなことがいろいろありました。

 自転車にモーターをつけて走らせたこともあったように思います。50C.Cバイク、スクーターのはしりだったような記憶が。免許証は不要ですが運転許可証をもらえば運転できました。電動補助自転車を見たとたんに思い出したのがあの頃の電動自転車でした。

(2390)「チンする」が通じない?

 友人達と話し合っているとき「チンをして」と口にしました。電子レンジを使ってという意味だったのですが、相手は「今時チンという言葉は若い人に通じないよ」と茶々を入れられました。

 ただ短時間で温め直しが利くだけなのに1台15万円もした初期の電子レンジ、今は5万円以下で多機能を持つ電子レンジの時代になっています。時間が来れば「チン」と知らせてくれたのが、声で知らせてくれたりメロディーを聴かせてくれるものもあります。たしかに「チン」というものばかりではありません。

 「チン」が通じないかどうかはともかく、一律にこうだと言い切れなくなっています。そういう意味では私の発言は不用意でした。何代目かになる我が家の電子レンジは機能が増えて使いこなせなくなりましたがいまだに「チン」。

 自分の家がこうだから他の家でも同じようにと考えるところに間違いの元があります。首相は「我が党はいまだかつて強行採決をしたことはない」と発言したそうですが、定義がしっかりしていなければ話が食い違ってきます。

 曖昧表現が多い日本、曖昧さ故にわかったようなわからない論議はこれからも続くことでしょう。そうは言っても電子レンジと言うより「チン」のほうがレンジの本質を突いているような感じがするのです。

(2389)東ロボ

 凄いです。先日東大入試に挑んだAI(人工頭脳)ロボットが挑戦を諦めたという報道がありました。凄いのはロボットでなくそんな問題を考えた人の頭脳。その人のことが報道対象にならなかったのが不思議。

 今年になり碁・将棋の世界で立て続けに名人クラスのプロ棋士を打ち破ったAI。それなのに受験断念するというのはよほどの難問なのでしょう。国立大学受験に2度も失敗した私にはとうてい解けない問題なのだと思います。

 もっともロボットは記憶した前例を活用した展開にすぐれているが、未知の世界に挑むことは苦手というロボットの特性から、実験などを元に理論を組み立てるのが現状では未熟だったことがあるそうです。

 驚異的なロボット工学の進歩はこれぐらいのことなら近いうちに覆すでしょう。人間が威張っていられるのもそれほど長くないかもしれません。囲碁の世界でも数年前までは名人級のプロには太刀打ちできなかったロボットです。

 それにしても近いうちに起きかねないロボット支配の世界。感情を持たないでただ効率だけを追求するロボットに支配された社会。考えただけでも恐ろしい。どこまで科学者の研究開発は続くのでしょうか。原子力の研究開発同様、適当なところで見放さなければ人類滅亡の悲劇を招かないとは言い切れません。

(2388)2本立て映画

 当時のGHQの政策だったのかもしれません。いわば日本人教育。洋画といえばアメリカ映画と思わせるほど偏っていました。評論家達が絶賛するフランス映画も見たいと思いましたが、なかなか。日本映画は戦争物やチャンバラ映画は御法度。何のことはない、検閲が解けたといいながら事実上GHQの検閲が入っていたのです。

 アメリカ映画はミュージカルか西部劇、ロマンスものが殆ど。たまにホラーも。吸血鬼ドラキュラ、怖かった。西部劇はいつも征服者が勝ちインディアンが悪者。もちろん現在は人種問題に触れるとかで新作はありません。テレビで放映されるときも「原作者の趣旨を汲んだ」断り書きが。

 日本映画は封切館からすでに2本立て。邦画制作4~5社がそれぞれ毎週2本の映画を作っているのですから濫造時代でした。平均1本1時間半。したがって映画館に入ると3時間拘束されます。しかし途中から入場し、途中退場可ですから入場料を損したと思えば割に自由。仕事の合間の息抜きに。

 それにしても冷暖房がない時代、寒さは館内の熱気でそれほど感じませんが夏は蒸し風呂。消防法なんてものがなかったのか多くの映画館は詰め込み主義。どこも通路はもちろん客席の後ろは立ち見客で押し合いへし合い。背の低い人は恐らく映画を楽しむどころではなかったでしょう。

 映画がラストに近づきスタッフ、キャストの字幕が出てくると場内はざわめき出します。一通り見終わった人が立ち上がりそうなところの通路で席を狙って待ち構えます。空席が見つかればすぐに鞄を投げて席を確保。こういう時は荷物の少ない男性よりバッグなどを持った女性のほうが有利。

 立ち見席は座席との間に太いパイプを渡して、そこにもたれかかれるようになっていました。もっともそれは最前列に陣取った人のもの。とはいっても後から押しつけてくるので結構痛い思いもしました。

 最後尾まで座席を置き、立ち見するスペースもなくなった現在の映画館では考えられないような混雑期の映画館でした。

(2387)昔の映画館

 テレビ放送が始まる頃は映画の最盛期だったかもしれません。戦意高揚の映画しか撮れなかった戦争が終わり、アメリカ映画を中心とした洋画が上映され、日本映画も毎週変わりで上映されました。

 当時はフィルムに焼き付けられた映画、新作はいわゆる封切館で。洋画の新作はロードショー劇場といわれる当時としては雰囲気の良い都会の劇場で上映されました。都会の場末、地方の映画館は2番館、3番館と称しいわばお下がりのフィルムがまわってきます。

 何度も映写機を通しているのでフィルムは筋傷が入り、さながら雨が降っている光景。あそこの映画館で見た映画は雨が凄く降っていて見づらかったなどと友達らとの会話。良く言い得たというほど雨が降る映画という描写は当たっているのです。

 しかも禁煙でないので映写機から投影する光にタバコの煙が反映し、映写効果を妨げます。小さい時からそういう映画ばかり見ていたせいか、煙が映写機とスクリーンの簡に浮かび上がる中、ぽろぽろ音を立てて煎餅を食べながら雨降り映画に引き込まれる。それが映画館と思い込んでしまったのです。
 
 そんなことで初めて難波の興行街でロードショー映画を見たときは、カルチュアショックの受け方も激しかった。雨が降らずナマのままの風景が映し出されていたのです。といってもまだモノクロ映画でした。

 総天然色映画と謳ったカラー映画、立体音響、シネスコという大型スクリーン。戦後の映画は私の学生時代以降大きく変わってゆきます。そういう時代に育ってきた自分、素人もスマホかなんかで簡単に動画を撮りまくれる時代になり、映像の世界の変革に目を見張らされています。

(2386)火の用心

 冬の夜になれば思い出すのが「火の用心」と拍子木を打ちながらまわる青年団の人々。集合住宅が増え、木造建築が減った都市部では全く聞かれなくなりました。我が家周辺はまだ木造建築が多いのですが、昔の青年団や少年団に当たるものがなく、こうした夜回りの声は聞かれません。

 会社仲間、趣味クラブ仲間などとの会話でも、仕事が終わってからこのような集まりに参加するのを嫌う人が多くなったという話題になります。会合があっても後片付けは会館管理者がいるので、その人に任せれば良いと帰ってしまう人が多いといいます。自分たちのことは自分たちで後始末をするよう教えられた我々世代と考え方が違うのです。

 一方では各地で行われた秋祭りなどには、一時期離れた若者たちが戻り積極的に祭の準備に参加するようになったという話も聞きます。京都の祇園祭に遠方から毎年駆けつけ、実行委員になっているという知人もいます。

 時代を反映してその時その時で若者の考えが変化するのは当然でしょう。とはいうものの自動車が走り回る都市部での「火の用心」と辻辻をまわる夜警は危険。また実効を伴いません。さりとて高齢者が多くなった農村部での実効性も疑われます。結局自警団はなくなる運命かもしれません。

 死者を伴う火災発生件数は増加していますが、新しい器具からの発火など原因が個々の火の不始末以外に及び、単純に「火の用心」をしても及ばないことが多いのでは盛大なお祭りが復活するのと逆に、夜警の声は少なくなるのも致し方ありません。それにしても冬の風物詩が消えてゆくのが寂しいという感じもします。

(2385)皇紀2600年

 2020年開催が決定した東京オリンピックなのに、決定後の準備進行がうまくゆかないようです。日本から提示した条件が受け入れられて開催が決定したはずなのに、決定後に会場を変更するなどでは国際的な約束を反故にすることになり、日本の信用にも関わると思うのは私だけでないでしょう。

 問題は発生した赤字は都民が払うという国内での取り決めが、都民に知らされていなかったことで、国際的な約束事と別次元のこと。開催決定後実はこれだけの赤字が見込まれるといわれては都民が反発するのも当然。収支の内訳を明示し、前回の東京オリンピックの結果から見て利用頻度の少ない競技場の建設費を抑えさせるのも当然のこと。いずれにしても国内問題と国際的な約束事は分けて考えるべきではないかと素人は考えるのですが。

 開催は2度目になる東京オリンピック、しかし記録上は3回目になります。1回目は私が小学校に入学した昭和15年。当時大津にいた私がどういうわけかオリンピックが開催されると日本中が大騒ぎをしていたのを覚えています。今は数えない皇紀2600年記念と謳っていたように思います。初代天皇の神武天皇が即位して2600年になるというのです。

 日米戦争前でしたが、日中戦争が激しさを増す中での行事、結局開催権を返上し2番手の候補地を決める余裕なくこの回は休止ということに。

 皇紀2600年、入学したばかりでなにもわからないはずなのに「金鵄輝くニッポンの 栄えある光身に受けて……」という歌詞は体に染みついてしまったようで忘れていません。それほどみんなに歌われていたのでしょう。

 テレビもない時代、ラジオでオリンピック放送を聞くしかなかったと思いますが、聞いたにしてもそれがどんなスポーツかも解していない私はさぞかし面白くなかったと思います。むしろ気持ちを明るくするテンポの奉祝歌が脳裏に刻まれたのかもしれません。

 ところで今年は紀元?年なのか。西暦年号が真っ先に飛び出し、紀元年号どころか平成何年なのかも咄嗟に出てこないときがあります。複雑多岐になったオリンピック競技種目だけでなく、年号もいろんな数え方があるとわからなくなります。何事も単純なのが一番。

(2384)ポンと綿菓子

 懐かしい名称です。甘いものが欲しい子どもの頃、お祭りの日に必ず出ているのが綿菓子屋。綿飴という人もいますが私は綿菓子と覚えています。お祭りの日に出る屋台の中に砂糖を機械に放り込めばぐるぐる回りながら蜘蛛の巣のように糸が。割り箸の先に引っかければたちまちぐるぐる巻きになった綿菓子が出来上がります。

 今も初詣に出かけると神社の境内でこうした風景を見かけますが、木の箸はプラの棒に代わり、ボールのように丸まった綿菓子を作る業者もいます。衛生観念が徹底したためでしょうが味気ない感じが。我が家の子どもたちが小さい頃には私のイメージと違う現代風の綿菓子屋になっていました。

 このような屋台で驚かされたのが「ポン」。ポン菓子ともいうそうですが私はポンの名で。米を真ん中に膨らみを持たせた円筒形の筒に入れ、ぐるぐる回すと2~3分後に大きな音を立て膨らんだ米が取り出されます。砂糖が入っていたのかどうかはっきりした記憶がありませんが、結構駄菓子としておいしい部類にあったような。

 スーパーで売られているポップコ-ンがよく似ているので製法が同じなのかどうか。しかし味が多様多種にわたるポップコーンと違い、いたって単純な味のポン。それでもうまく感じて頬張った子供時代。何しろ食料が少なくなろうとしていた戦時中のこと。

 もちろん米を使うポンや砂糖を使う綿菓子、終戦前後には全く目にしなくなりました。それだけに一種の郷愁を備えたおやつだったと思います。現在それぞれ似たものを目にしますが、当時のものとはどこかが違うという気がしているのです。

(2383)いつ覚えたのだろ カタカナ用語

 高齢者の自動車運転事故が多発しています。多発といいましたがもともと高齢者は今ほど多くなかったことがあるのかもしれません。人数が増えればそれだけ確率も高くなりますから。

 私は昨年免許証を返上しましたが、比較的都市部に住んでいるためそれほど痛痒を感じません。会社を辞めてからは旅をしたときにレンタカーを利用するぐらい。都心では渋滞に巻き込まれ電車のほうがよほど。

 旅行先でレンタカーを借りるのはやはり行動範囲が広がるからです。時間の自由も利きます。テレビの紀行番組を見ていると地方では1~2時間に1本というダイア編成の交通機関、ひどいところでは朝・夕に1本ずつしか電車が通らないところもあるそうで、こうしたところではマイカーが無ければどうにもなりません。

 そんなことで車の必要性は良く認識しているつもりですが、運転中に意識がもうろうとするなどの現象があるという人の運転は気にかかります。自分だけでなく周囲に迷惑をかけることになります。

 昔は家族や近くの人がバックする車に向かって「バック、オーライ」なんていいながら誘導する場面を見かけたものでした。英語禁止の戦時中でさえそういう誘導をしていたと思います。とにかく私がラジオなどという日本語に代えられないまでに浸透した名詞は別として、動詞に当たる横文字を覚えたのは戦時中。誘導する言葉からです。

 トラックがバックするのを見て「バック、オーライ」と声をかけ石垣に当てさせて逃げた子供たち。運転手は土地を知っており、石垣を倒したり車に傷をつけるようなスピードを出していないので、わざと当てて悪ガキを追いかける程度。いわばお遊びの世界。それがとげとげしい世相の現代なら刃傷沙汰になりかねません。

 それはともかくカタカナ用語が氾濫する時代になり、改めて振り返ってみると「バック、オーライ」と同じように、いつの間にか生活の中にカタカナ用語が溶け込んでいます。どこで覚えたのか全く意識していないうちに。そしていつの間にか忘れてしまう用語も数限りなく。

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