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2008年12月

(743)レコード大賞 

 年末になると放送局は競って歌番組を放送します。もともとNHKの「紅白歌合戦」に対抗した番組でしょう。

 NHKはラジオしかない時代に始めた「紅白」を今は地上波TV、BS2 、ハイビジョンでも放送します。放送しないのはラジオ第2放送と教育TV、BS1、FMラジオ。8波を持つNHKが半数の波を使うのは電波の乱用という気がしないでもありません。

 下がり続ける視聴率を上げようとNHKはニュースなども利用したPR作戦を展開しています。視聴率が下がっているといっても、同放送時間帯のナンバーワンという地位は譲りません。なのにです。なりふり構わぬPR作戦です。

 これに対抗すべくTBSは「レコード大賞」をぶっつけていました。この番組、当初からTBSがバックアップしています。しかし途中数回在京民放3社で輪番制の放送を実施したという記憶があるのですが、あるいは記憶違いかもしれません。

 日本教育放送で始まったテレビ朝日と、ずっと後発のテレビ東京が参加していなかった頃のことです。他の番組と間違えているのかもしれません。何しろこの頃いろんな名目のうたばんがありましたから。

 テレビ東京が「懐メロ」特集を組むに至り、大晦日の夜は歌謡曲ファンにとってチャネルをどこに合わせるかが大問題でした。最近はうたばんそのものの不人気と歌手の争奪戦、若者歌手の台頭と従来の演歌が少なくなり、興味が薄れてきました。

 レコード大賞につきまとった審査の不透明さを噂され、レコード大賞をおもしろくなくしたのかついに今年は放送が1日繰り上がってしまいました。

 これで今年はゆっくりと「紅白」を楽しめそうです。

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(742)音調整

 先日ラジオを聞いていると、聖路加病院の日野原先生が「オーケストラの音合わせはドレミファのドでなくソラシドのラで始める」と話しておられました。

 子供の時に音痴と音楽の先生に言われて嫌いになった音楽です。音合わせがどの音か知るわけがありません。

 子供の頃は何回も書いたように横文字禁止のため、音階は「ハニホヘトイロハ」で教えられました。それぞれ「ドレミファソラシド」にあたります。

 音楽に馴染めなかった私ですから、オーケストラの音合わせがどこで始まろうと関心がありません。

 問題は戦時中せっかく「ハニホ…」に置き換えるならどうして、きりの良い「イロハ…」から始めなかったのでしょう。

 音合わせはオーボエで「ラ」の音を出し、他がそれに合わせるというのはオーケストラに限らないそうです。

 私たちは「ドレミ」と「ド」をスタートラインにして教わります。だから戦時中の音楽なら「ハニホ」というように「ハ」を基本と考えていました。

 しかし音合わせの基軸が「ラ」なら、戦時中の音楽では「イ」がベースになっていたことになり「イロハ」の並びになります。自分なりに疑問が解けたような気がします。

 といっても子供の時に覚えたことは忘れられず、未だにドレミファに馴染めません。無理にハニホに翻訳しないでも良いのに、そうしないと鍵盤の位置がわからないのです。

 この調子ではいつまでたっても音楽は上達しそうにありません。

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(741)歌舞伎座

 再来年、2010年春に改築を始めるという東京歌舞伎座12月公演昼の部を見ました。

 戦火に見舞われ1950年竣工という歌舞伎座は60年目にして高層ビルに立て直されるということです。それより早く新橋演舞場もビルの中の劇場に変わってしまいました。戦後の建築とはいえ重厚な屋根を持つ歌舞伎座は築地の名所でもありました。
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 私の知っている大阪歌舞伎座は千日前の一角、大阪劇場の斜め前にありました。ビルの中の劇場でした。今は御堂筋に面したところ、新大阪歌舞伎座としてお目見えしていますが、私の東京転勤後でまだ中に入ったことはありません。

 このように古典演劇の殿堂が移り変わると、京都の南座の存在が重みを増します。新しい歌舞伎座はどんな姿になるのでしょう。

 東京歌舞伎座に初めて足を踏み入れたのは1960年頃でした。3階の一幕席から当時の勘三郎(だったと思います)が踊る舞踊劇「京鹿の子娘道成寺」を見ました。17代目だったでしょうか。

 安珍清姫にまつわる女の情念を舞台に吊り下げられた、大きな鐘の周りであでやかな踊りで客席を魅了しました。歌舞伎座の3階席は急勾配、真下に舞台を見る感じです。

 今回も同じ出し物があり、三津五郎が踊ります。花道のすぐ横で見ていましたが、三津五郎の舞がとてつもなく美しい。見とれてしまいます。

 ところが以前見たときにわかった筋書きが今回は今ひとつわかりにくいところがあるのです。確か鐘の中の大蛇が変身する様が描かれていたような覚えがあるのですが、今回はそうしたスペクタクルなところがないのです。

 舞う人によって主題の解釈が違うのかと考えるのですが、それにしても今回は早変わりによる衣装の数々。すばらしい美しさで幕が降りて初めて前回との違いにあれっと気づくほどでした。

 古典歌舞伎はいろいろな人が演じますが、演じる人によりそれぞれの違いが表れるところに興味を覚えます。

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(740)スイッチバック

 のどかな初冬のある日。近くの公園で赤子を抱いた若い主婦がブランコに座りゆらゆら。いかにも日本的な風景です。本来こういう姿を見られるのが当たり前の日本でした。世相が剣呑になりなかなかこういう景色が見られません。

 ブランコが行ったり来たりする様子を眺めながら、鉄道のスイッチバックを連想したのはどういうわけでしょうか。

 電化、高速化等鉄道路線はずいぶん近代化されました。スイッチバックやアプト式路線の急坂も少なくなりました。まだ何カ所か残されているようですが、そのうち鉄道博物館でないと見られなくなるかもしれません。

 急坂ではないが首都圏でも折り返して方向が変わる路線がありました。今は直通運転されている千葉駅もその一つでした。両国から出た列車はそのまま千葉駅を南に走るのかと思いきや、逆に今来た方に戻りだしたときはびっくり。

 西武秩父線の飯能駅は未だにかつての千葉駅と同じく折り返しています。

 旧国鉄吉野口から五条を経る和歌山線にあったスイッチバックが私の記憶にある最初の経験です。今ではどの駅にあったか思い出せませんが。

 箱根登山電車のスイッチバックなど行ったり来たりというのどかさはあわただしい世の中で素敵な想い出を作ります。

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(739)不景気

 年末になると年の瀬をどう過ごすかが新聞などの話題に取り上げられます。江戸時代の話にも商人や長屋の人達の年末風景がよく見られます。戦後も夜逃げなどの話がありました。

 正月という言葉に明るいイメージがある一方、年末というのはどうも暗い話題がつきまといます。

 さすがに取引方法が振り込み制度の普及など、近代化された社会の中では、年末に集金人が走り回る姿も少なくなっています。

 そんな時代というのに今年はとくに年末の世相が暗くなっています。アメリカ発の金融恐慌に世界中が震え上がり、労働者の職場が奪われています。

 今年の寒さに震えるのは仕事の安定しない人たちばかりか、政治家、財界人なども巻き込んでしまいました。

 本来なら社会をリードしてゆかねばならない立場の人が、自身の生活に目を奪われ他を顧みなくなっているような気がしてなりません。

 企業防衛と称して多数の働く人を解雇したり、長期の見通しさえ作れなくなったリーダー。逃げの体制に入ったと考えるしかありません。

 リーダーが逃げの姿勢に入っているようでは、来年が明るい年になるのかどうか。終戦前後の軍人達の姿と重なって見えるようになりました。

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(738)縁起を担ぐ宝くじ

 宝くじは過去何度も取り上げました。当たりもしないのに買わされる妙な魅力があるのが宝くじです。

 先日歌舞伎座の入場券を引き取りに行ったとき、通りかかった数寄屋橋チャンスセンターはいつものように長蛇の列。それも1番窓口の売り場が飛び抜けてひどい。

 ほかの売り場もそこそこ並んでいましたが、マリオン近くまで列がつながっているのは1番窓口だけ。

 係員が必死に他の列に並ぶよう誘導しても全く聞こえないふり。そこまでジンクスにこだわるのか。という私も同族人間でした。

 さすがに有楽町の売り場に並ぶ勇気はなかったのですが、立川では比較的高額当選がよく出るという駅前売り場。前を通ると数寄屋橋と比較になりませんが、それでも1番売り場だけが列が長い。

 2番、3番の売り場はそんなに並んでいませんが、たまたま通りかかったのは運命とばかりに私もくじ買いの列に並びました。もちろん1番売り場です。

 これで少なくとも年末までは一縷の望みを託せるかとばかりに。

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(737)関西丸餅、関東切り餅

 また正月がやってきます。

 子供の頃は正月が待ちきれません。従兄弟達が集まりカルタや双六などを楽しむのです。男はいつまでも女の遊びにつきあっていられません。外に飛び出しそりなどで坂を滑りまくります。

 何よりの楽しみはやはり食べること。これは女も男もありません。餅を焼いてはきな粉をつけたり、砂糖醤油で。

 といってもこれは戦争が激しくなる前のこと。そのうち餅は団子汁に変わり、それも姿を消しました。

 戦後になり餅を食べられるようになりました。隣の土産物屋に臼を引っ張り出し、みんなで搗きます。粘りが出てきた餅をみんなで手頃な大きさに千木っては丸める作業が大変です。子供がやると大きさがいびつになり、不揃いになります。

 大人達から叱られながらも何とか同じ大きさに千切れるようになりました。

 ある時いつものように搗きあがった餅を千切ろうとすると「それはかき餅にするからそのまま枠に入れなさい」との注意。四角い枠に搗いた餅を移し平らに広げます。それを薄く切って縄で編み外につるしました。数日天日で干すと堅くなります。火鉢で焼くと香ばしい香りが漂い…。

 そうです。餅は丸いのです。四角いのは薄くスライスしたいわゆるおかき、関西ではかき餅といっていました。だから些細なことで弟と喧嘩になり、彼の餅を外に投げ捨てると坂をころころ転がり行方不明になってしまったのです。

 東京に来て驚いたのは餅がみんな四角いことでした。現在のように機械生産するようになればなおのこと、丸くする手間より四角い方が早く無駄なく生産でき合理的かもしれません。

 一方味気ないという気もします。コンロの炎は一般的に円形に燃えます。その上に四角い餅を置くと焼き具合がどうも良くありません。

 さらに機械搗きの餅は膨らんだと思うとパンクしたあとしぼんでしまいます。皮だけが膨らみ中は空気がいっぱい。膨らんだところを子供ができたなんて言っていましたが、その部分が空気ぶくれしています。本来ならそこにも餅の中身が詰まっているはずなのに。

 長らく関西で正月を過ごしていませんので、現在はどうなっているのか。あれほど嫌われていた納豆が関西でも今では普通に食べているという時代ですから。

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(736)福袋

 正月になると「福袋」の発売が常態になり、それを楽しみにする人が多くなりました。

 若いときにはそんなものに関心を持たなかった私。ある年の正月、初売りの日に駅近くのデパートに出かけました。大勢の人が並んでいるのを見て開店を待っているのかと早合点し、列の後ろにつきました。

 シャッターがあがると同時に行列は階段を駆け上がり催し会場へ。つられて私も階段を駆け上がります。そこにあったのは当時2千円の福袋。これが最高価格でした。30年以上前のこと。

 訳もわからず福袋を受け取り我が家に。袋は完全に止められていて中になにが入っているかわかりません。結果はたまたま私のサイズに合うGパンとかバスタオルとか。私も家内もどうしようもないサイズの肌着もあったように覚えています。

 それでも2千円の価格から見れば我が家で使えるものだけでそれだけの価値があると喜びました。味を占めて次の年にも挑戦しましたが、このときは我が家向きのものがなく3千円を無駄にしました。

 価格は値上げされていました。今は目玉にしている福袋が1万円になっているようですが、中身をあらかじめ見せたり客が袋の中を改めたりする世知辛い世になりました。

 福袋と言うからには宝くじと同じ、中がわからないからこそ福を呼ぶかどうか占えるというもの。確かに値段も高くなったからには使えないものが入っていても仕方ないという論に納得させられます。

 それでもねえ。やはり福袋は縁起物。当たる、当たらないは時の運であって欲しいような気もします。

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(735)指差し確認

 「指差し確認」という言葉を知ったのは電車通学となった中学時代のことです。物珍しさもあって運転台のすぐ後ろに立っていました。子供たちはだいたい乗り物に乗ると一番前に立ちたがるものです。

 当時私たちが利用していた電車は単線。信号は腕木式。すれ違い可能の駅では必ずタブレットの交換があります。

 電車が入構する前の信号機を見た運転手は前方を指差し、大声で「ヨーシッコウ」と怒鳴ります。このように私の耳に聞こえたのです。後に「良し 進行」と言っていると聞かされました。

 新米乗務員の時には「指導員」という腕章を巻いた先輩らしき人が乗り込みます。運転している人は一段と声を大きくしているように思えました。

 信号機のあるような駅だと、タブレット交換のため助役たちがホームに立ち発車する列車を見送ります。運転手同様立ち去る列車に向かい指差しをして「ヨーシッコウ」と怒鳴っていました。

 今でも運転手や駅員は指差し確認を行っていますが、駅員が大声を張り上げる場面は見られません。駅員のいなくなった駅も少なくありません。

 この指差確認という方法は私自身も実行しています。家を留守にするときは必ず火元、電源などを指差確認しています。最後は玄関の鍵。しかしさすがに声を出すところまではやりません。

 いずれにせよ、年をとるほど物事をルーズにしがち、また忘れることが多くなります。そういうとき面倒でも要のところを指差確認することで、とりあえず安心できるというわけです。

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(734)篤姫

 日本中を沸かしたといえばオーバーな表現になります。しかし初めのうちこそ視聴率上位を占めていたドラマ「篤姫」は、後半トップの座を独占。終盤は2位以下をぶっちぎる勢いを見せました。

 最近のドラマでは珍しく高い数字をあげました。当初維新前後を題材にしたドラマは評判が良くないと噂されていましたが、そういう世評を覆した出来事です。田淵久美子の脚本は「家族」という背骨を通したことで、家族というシステムが崩壊しそうな今の世に受け入れられたのではないかと思います。

 ドラマの内容が史実と違うと騒ぐ人たちがいますが、ドラマはあくまでフィクションです。史実を忠実になぞるのならそれはドラマではありません。ドラマはある題材を捉えその世界を借りて作者が独自にイメージを膨らませ、ドラマを見る人に作者の感じ方、主張を訴えるものだと考えます。

 実のところ、私はこのドラマを見るまで篤姫という女性の存在を知らなかったのです。ドラマを見て主人公に関心を持ち、篤姫に関する本も読みました。数奇な運命の女性です。確かに史実としてみる限りドラマに描かれた篤姫はかなり美化されているように見えます。

 でもそれはそれでよいのではないでしょうか。俗に「馬鹿殿」といわれた家定。混沌とした幕末を乗り切らねばならない将軍職。周囲に馬鹿と思わせて自分は冷静にあわてふためく実権者どもを見据えているという解釈もおもしろい。なるほどそういう見方もできるのかという気がします。

 おかしいのは好評を得てからのマスコミの取り上げ方。高くても30%近く、20%台の視聴率ですが「大ヒット」という表現です。紅白は「40%を切って視聴率が落ちた」と騒ぎます。数字そのものは真実ですが表現の仕方で受ける印象度が大きく変わる好例です。

 普通、このようなヒット番組が出ると次の作品に期待するものですが、たぶん期待するのは無理でしょう。好景気の次には景気が落ちることしかないのですから。トップを維持するのは大変なことだと思います。

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(733)萩・津和野(04.09)

 陶芸を初めてしばらくした頃、一度萩の土を使いました。しかし素人には扱いにくい土ということを認識させられました。ボロボロして練りにくいのです。成形してもすぐひび割れを生じます。
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 先生にも助けてもらい焼き上がった茶碗は味のあるものになりました。作品になっても使えば使うほどヒビ模様ができ、それが景色になるということでした。

 是非その窯元を訪ねてみたいと秋芳洞から萩に車を走らせます。カーナビが装備されていたため初めての道路でも最短距離を選んでくれます。ところが新しくできた広い道路があるはずなのにカーナビは旧国道を選んでしまいました。

 指示通りに走ると道路は狭くなりついに往復一車線の山道に。こうなっては戻ることもできません。しかも途中で道路工事があり作業車の横を係員が誘導してくれましたが、対向車が来ればどこに避難するかを考えるのに頭いっぱい。
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 不思議なことに対向車とは一回だけ。ちょうど民家に入る道路がありそこに頭を入れてすれ違い。

 やっと道幅が広くなって気持ちにゆとりができたときにはもう萩市内の標識が。ところが旅館が白壁のある旧家街の中にあり、保全地区に指定されているとかで一方通行を示すなど通常の道路標識以外、どこに向かうなどの標識や看板が一切ありません。

 カーナビ上は「目的地到着」と表示されているのですが、目的の旅館がわからずやっとのことで門にぶら下げられた看板を見つけることができました。考えてみると一方通行の道を二回ばかり回っていたことになります。
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 旅館は現皇太子夫妻も宿泊された名門旅館で、よく手入れされた英国庭園を持つところでした。車を置いて早速夕焼け迫る海岸に。

 この狭い道路を車で走るのは面倒と、翌日も昼頃まで宿の駐車場に車を預かってもらい、木戸孝允屋敷や指月公園など徒歩で散策。

 午後は車で松陰神社とその付近を見学しています。そして萩で二泊目を。萩焼の窯元を見るのはできませんでしたが、萩焼会館で体験工房をのぞくくらいは。火を落としており、実際の作陶場面や窯入れなどを見るのはできませんでした。
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 津和野は萩におとらず落ち着いた街でした。ところがここで土砂降りの雨に。車を駅前の駐車場に預け、傘を持っての見物です。帰りの飛行機時間さえ間に合えば時間は自由です。あちこちの記念館などに立ち寄りながら鯉の泳ぐ側溝がある白壁のところに。

 あいにくの雨というのに大勢の観光客が観光バスで。昼食をできるだけ人の少ないところと考えながら、うまそうなところはどこも満杯。こうなると人の心理は恐ろしいもので空いているところは旨くなさそうに感じてしまいます。
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 車があれば観光バスと違い、どこでも自由に足を降ろせます。途中で見つけた「森鴎外記念館」「安野光雅美術館」「北斎美術館」等。雨のせいもありまるで各駅停車です。

 飽きっぽい私には珍しく、また訪ねたい街として記憶に残る旅でした。

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(732)紙焼きに救われた山口の画像(04.09)

 デジカメが世に出た頃の画素数ははなはだ悪く作業現場写真ならともかく、カメラを趣味にするものにとって魅力のあるものではありません。そういう意味で私が初めて手に入れたのも売り出されてかなり年数がたってからでした。
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 03年にスイス方面に行ったときに初めて旅に持ち出したくらいです。山口から萩方面に旅をした04年09月、コンパクトデジカメを持参しました。あわせて35ミリ判のコンパクトカメラも持参しました。

 デジカメ画像はCD-Rに保存しておきました。ところがその画像が読み出せません。CD-Rの性能を過信していたのです。バックアップもしていません。
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 フィルムカメラのフィルムは大丈夫でした。気がつきアルバムをひっくり返すとデジカメ撮影分もちゃんと紙焼きしてありました。それをスキャンしここに紹介することができたというわけです。

 以前にも書きましたが長く残すためには何でも紙に保存するのが一番です。電子的な保存には必ず破損という状況が起き得ます。紙も火災などに遭う恐れがありますが、そうなればどんなバックアップ方法も有効ではありません。

 山口宇部空港でレンタカーを借り山口に向かいました。ザビエル記念聖堂、瑠璃光寺、雪舟の庭がある常栄寺などを回りました。わりと狭い範囲の中に多くの名所がかたまっているので車だと便利がいいような、悪いような。
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 いつものことですが私が旅をするときは天気に恵まれます。今回も例外ではありません。気持ちよく予定のところを見学し、秋芳洞に車を走らせます。

 秋芳洞は学生時代にも来ています。その当時、洞内にあったエレベーターに驚かされたものです。鍾乳洞内にそんなものがあれば自然破壊につながるのではと。もっとも今秋行った袋田の滝見学でも展望台にエレベーターが新設されていましたが。
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 それにしても秋芳洞の規模はそれまでに見ている鍾乳洞とスケールが違います。ただ私の好みからいえば、奈良県洞川で経験したようなろうそくの火を頼りに洞穴を這って進むのが鍾乳洞らしく感じられます。終始立ったままで見学できるところはあまりないような気がします。

 天気男がどうしたことか、鍾乳洞から外に出ると突然の雨。通り雨のようでしたがこの調子では秋吉台に行ってもあまり展望がよくありません。これから萩の宿まで車を走らせねばならずその見学はあきらめました。

 私自身は学生時代にあの独特な地形を見ています。しかし同行の家内は疲れた様子なので無理をしなくともという気持ちでした。

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(731)日本海側経由

 物心が付いてから青森はまだ足を踏み入れていません。5年間も住んだところというのに。

 住まいを転々としてきたからには、かつて住んでいたところがどういうところか見ておきたいという気持ちがあります。

 母から大阪から青森への往復で北陸本線をよく利用したと聞いていました。今は大阪から青森経由の札幌行き夜行寝台特急が出ています。現在東京に住む私はおそらくこの路線を利用することはないでしょう。

 大阪から北陸周りで東京を結ぶ新幹線の計画がありますが、青森まで縦断する計画は今のところ出ていません。

 大阪から青森へ行く鉄路は日本海周りになっています。ビジネスであればこの区間は航空機を利用する人が圧倒的でしょう。旅行客でも同じだと思います。

 そういう時代でも大阪、青森を結ぶ列車は日本海側を通っています。東京経由の列車は幼い頃から全くありません。これが最短距離ということのようです。

 70年近くも青森に行っていませんが、現役時代に札幌から大阪への飛行機を利用したことがあります。窓から眺めていると、函館付近から福井付近まで日本海沿いに飛んでいました。

 こうしてみると関西から青森、函館方面のコースは日本海側を通るのが最短距離というのかもしれません。

 私が東京転勤になった頃上野から北陸線経由の大阪行き列車が走っていました。新幹線がまだ通っていない時代です。東海道本線が過密ダイヤというほどになっていなかったと思います。北陸線周りに比べれば遙かに短い時間で走れる東海道線があるというのに。

 通して乗ったお客がどれほどいたことやら。そんな考え方をすると、東海道・山陽新幹線も本数が多くなった東京・博多間の直通列車で、通して乗る人はそれほど多くないように感じます。

 始発駅から終着駅まで乗車するというより、途中駅間でも便利が良ければという乗客のため走らせていたのだと思います。確かに名古屋から岡山への乗客、高崎から彦根へという客があればこういう列車は便利が良かったに違いありません。

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(730)引き込み線

 入社した頃、神戸の海岸通りに沿うように貨物の引き込み線が並行して走っていました。東海道本線灘駅から川崎造船の方向に向かい兵庫駅でまた本線につながっていたと記憶しています。

 途中の工場に引き込まれていたのでしょうが、そのあたりのところは覚えていません。東京勤務をしている間にも神戸は様変わり。海岸通りの上に高速道路が走り、いつの間にか貨物線が消えました。

 発端の灘駅にももはやその名残らしきものがあるだけで、レールはなくなっています。まして高速の下に貨車が走っていた時の面影はありません。

 東海道線は尼崎の工場地帯を抜けているため、かつては沿線の各工場に引き込み線が敷かれていました。製紙会社、ビール会社、重電会社等々に。

 最近同じ路線を通っても殆どの引き込み線は撤去されています。製品輸送がコンテナートラック等に置き換えられてしまったからでしょう。

 私は晴海にあった教習所で運転免許を取得しています。仮免時代は晴海から東雲方向に、そして越中島通りを抜けて教習所に戻るコースをよく走らされました。

 その頃晴海にあった国際展示場に抜ける道路に引き込み線があり、踏切一旦停止の練習をそこで経験するようになっていました。しかし運転中一回も列車に行き食わしたことがありません。

 なぜそこに引き込み線があるのかさっぱりわかりません。おそらく貨客船の出る晴海埠頭への輸送路だったのだと思います。

 そういえばかつてはあちこちにそうした引き込み線の踏切があり、遮断機のないところも多く、免許取り立てで見知らぬところを走っていてよく驚かされました。何しろ予想もしないところに踏切があるのですから。

 工場地帯を走るときは要注意です。確かに「クロスウエー」の標識があるのですが。それでも夜間、突然車ががたがた揺れ踏切を乗り越えたとわかったことも数度ありました。

 立川のメイン道路にも立川基地に通じる引き込み線が横断していました。遮断機どころか警告音も出ません。さすがに地元の人間としてその存在を知っていますからそこでは一旦停止を励行していました。

 しかし地理勘のない車でしょうか、ノンストップで通り過ぎたり、あわてて急停車したりという車をよく見かけました。

 気がつくと、列車が通過するときには駅から係員が来て、手旗で車を止めていました。航空燃料を満載した長い編成の列車が通るのですから、それぐらいの注意は当時の国鉄側でもはらっていたのです。

 拝島駅から米軍横田基地に一本のレールが走っています。基地への輸送ルートになっているようです。最近マイカーがないためそのあたりに行きませんが、新しい地図を見ても描かれていますからまだ活躍しているのでしょう。

 引き込み線はJRのみならず私鉄にもよく見受けられます。西武沿線にはブリヂストンの工場があります。本線のすぐそばにある工場ですから引き込み距離もそれほど長くありません。もちろん道路を横切らないため踏切もなく、レールは昔通り工場内に引き込まれています。

 しかしトラックが何台も構内に入っていますから、引き込み線としての機能を発揮しているのかどうかわかりません。レールのさびを確認するほど私に関心があるわけでもなし。

 高速道路の発達に伴い一時期トラック輸送に切り替える動きが多く見られました。その高速も幹線は慢性渋滞に悩まされています。列車輸送はコンテナー輸送になり高速化されたため、企業も見直しを始めているそうです。

 そうなればまた引き込み線の価値が高まり、工場内にレールを引き込むところが増えるのかもしれません。省エネ、エコの観点からも好ましいことと考えます。

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(729)神戸懐古(04.03)

 学生時代、将来神戸と関係ある身になると夢にも思っていませんでした。京都、滋賀、奈良、大阪と近畿各府県に順次住みながら、母校のある西宮に通うまで兵庫には全く無関係だったのですから。
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 神戸で貿易商を営む親戚があったので親に連れて行ってもらったことがありますが、東京の叔父宅に行ったときほどの鮮明な想い出がありません。戦火の激しくなる前でした。

 高校時代には甲子園球場にたびたび行きましたが、学生時代になっても西宮から西に行ったことがなかったように思います。
 
 神戸は戦火を浴びて中心部の大半が焼失、また大震災で都市機能を失っています。戦後の闇市が幅を利かせていた頃に神戸三宮駅前に新築なった会社に就職しました。まだ高層ビルが建つ前です。
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 会社の3階ぐらいから上の階に上れば神戸港が見渡せました。徐々に目を遮る建物ができはじめ、海は見えなくなりました。

 その頃神戸駅前の海岸側にあった製鉄会社も工場を移転し、神戸の中心地は三宮に移りました。特急列車の停車駅は神戸から三宮に変わりました。

 貿易港として発展してきた街は空の輸送量が多くなるにつれ、取り扱い貨物は減量し活気を失いつつありました。そういう変化の激しいときに勤務していたわけですが「夢の架け橋」構想に始まる神戸再生計画が持ち上がります。
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 山を削り新しく人工島を作り、ファッション都市としての地位を確立させてゆきます。いわばバブルにうまく乗っかったというのでしょうか。

 退社の翌年大震災に見舞われ、またも神戸の街は崩壊しました。その1年後にも神戸に行きましたが、まだ三宮近辺は歩けば砂埃の立つ有様、周囲を見回しても工事中のところばかりです。

 震災の9年後、復興は思いの外早く震災当時の面影は殆ど見られなくなっていました。私の勤めた会社は神戸駅前に移転、三宮の本社跡地は一時的に駐車場に転用していました。
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 神戸港巡りの船に乗ってみました。海から新しい神戸を眺めようと考えたのです。まだ神戸空港はオープンしていません。

 川崎ドックでは大型船が新造されていました。しかし残念ながらポートターミナルに客船の姿が見られませんでした。

 おかしなものでもともと神戸に無縁の私も生涯の大半を過ごした会社にいれば、その街にも愛着がわきます。その変化を求めて少なくとも年に1度以上は神戸に帰るようにしています。(パンフは神戸市内ガイドマップから)

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(728)旧友

 人生も3/4世紀ともなれば友人が亡くなります。

 私は父の仕事柄転校が多く、入学校を卒業したのは大学のみ。小学校、中学、高校とそれぞれ転校歴があります。

 転校が多いということは、それだけ同級生の数が多くて当然ですが、反面新しい学校にとけ込みにくい性格の私にとって友人は数少なくなりました。

 それだけに親しくなった友達とはいつまでもつきあうようになります。大津の国民学校。家も近くにいた鉄工所の友達は吉野に転校しても長い間文通をしていました。それ以外の友達も何人かいたはずですが、全く名前が出てきません。

 吉野で2年通った国民学校でも大阪から疎開してきた人と仲良くなり、別の中学に別れても時々会って遊んでいました。

 旧制中学でも親友といえる友がいました。学区制で強制的に変わらされた地元の高校、卒業した大阪の高校でもそれぞれ親友を作っています。といっても多くありません。さすがに4年間の学生生活を全うした大学だけは大勢の友人ができましたが。

 社会人になり同僚に恵まれ、仕事柄つきあいができて今でもという人は少なくありません。たまに彼らと会っては回顧談に花を咲かせています。

 リタイアした今ではお互いに会って笑い話になりますが、現役時代の同僚は相談相手であると同時にライバルでもあります。ピラミッド組織の中ではそれもやむを得ないことかもしれません。学生仲間のようにとことんうち解けることができないのは、そんなことがあったからだと思います。

 かえって仕事上つきあいのあった他社の人のほうが頼りになる場合もありました。参考になる意見をいろいろもらったような気がします。

 山崩れのため同じ疎開児童として仲良かった友を国民学校で亡くしました。友人の死を初めて実感しました。

 今一人の当時の友人。お互い社会人になってもつきあい、独身時代には旅行、お互いの結婚式には招かれたり招いたり。その友人が病に斃れてもう30年近くなるでしょうか。彼の兄の勤め先は私の勤める会社に紙を納入する業者で、その兄が担当者と知り奇遇に驚いたものでした。
 
 旧制中学時代同方向から通った造り酒屋の友人も10年以上前に鬼籍に入りました。

 そして今年は二人。

 友人の場合は概ね葬儀に参列してわかっているのですが、年賀状を書く時期になって改めて舞い込む年賀欠礼の連絡。まだ本人より家族の不幸を知らせる数のほうが多いのですが、年々増える欠礼状を読みながら寂しさが募るのを押さえられません。

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(727)神棚・仏壇

 戦争中の学校では「神国日本」と教えられました。学校の調査では必ず「家の宗教」「自分の信じる宗教」というような調査項目があったのですが、そういう問題とは関係なくです。

 正直なところあまりそういう問題に関心のない子供時代のこと。学校からの宗教に関わる調査も自宅で親に教わらねばわからないほどです。

 私の知っている限り、どこの家でも神棚と仏壇があります。正月は神棚をきれいにし、お盆には仏壇の前を飾り立てました。

 先日ラジオを聞いていると、女優の二木てるみさんが「小さいときに親が通信簿を神棚に供えていた」と話しているのを聞き思い出しました。

 私の母親も父のいる間はずっと神棚に私の通信簿を供えていました。応召し疎開してからはそれをしなくなりました。疎開先では自分用の神棚が無くなったからです。

 父の戦死公報が届き遺髪の入った白木の箱が帰ってきてからは、位牌と線香立てをタンスの上に設けていました。その後、母が店を持ち小さな神棚が復活しました。小さい仏壇ができたのもその頃です。

 学生時代にアルバイトを始めた私の初給料。そっくり母に渡しました。1ヶ月で2~3千円だったでしょうか。なにも言わず受け取った母はそのまま仏壇に供えていました。神様より父に見せたかったのでしょう。

 現在私宅には初詣でいただくお札の置き場として、形だけの神棚と小さな仏壇があります。小学校低学年の頃の子供の通信簿は仏壇に供えました。また就職後の初給与を預かりやはり仏壇の供えておいたことがありました。

 そういう意味で我が家では神仏が共に見守ってくれていることになります。宗教戦争は起こりそうにありません。自然のままというところでしょう。

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(726)身長が減る

 年に一度、誕生日検診があります。70歳を超えてから人間ドックはご無沙汰。自治体の健康診断を受けてきました。

 これも予定では来春で最後のようです。めでたく後期高齢者の仲間入りをしますので。もっとも国の施策が思いつきのようにくるくる変わるので、継続されるかも。

 でも金をかけない方には変更しても金のかかる方の変更は賢明な国のことです。まず考えないでしょう。支出削減を考えず、支出額に合わせて収入を考えるというところですから。足りなければ増税か国債の追加発行しかないと硬直した考えの人ばかりです。

 自治体広報を見ていると再来年からは住民税も年金から差し引くそうです。いずれ納めなければならないものですから、結果は同じですが年金支給手取りが減るのは気分が悪いです。

 減ると言えば私の身長も年々減少しています。記録を見れば40代から50代の172.5㎝を境に一昨年は165.5㎝、昨年、今年は167㎝に戻りました。一昨年はあまりの減少ぶりに計り直してもらいましたが、数字は同じでした。

 いずれにしても最高身長の時から5㎝も減っているのです。5㎝違えば目線の位置が全く違います。カメラで人物を撮るときは相手の目線に合わせて撮影するようにしています。その写角の違いを考えればその差がわかるというものです。

 体重が増えたかと言えば必ずしもそうではありません。青年時代60㎏を切っていたのが多少オーバーするようになった程度です。

 しかし医者は許容範囲内だが多少身長に比べて太り目かなという診断です。身長が減り体重が増えたのですから、そう言われてもやむを得ません。

 何事も減るというのはおもしろくありません。今から身長が伸びるのを期待できませんが、減らないのを望むばかりです。

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(725)生放送

 FMラジオは音楽番組をメインにしている局が多いようです。中波ラジオも最近はトークと音楽が主流です。

 このような番組はレコードを回すというのか、録音テープを流すというのか、あまり経費がかからないのが魅力なのかもしれません。

 民間放送が始まるまでは録音テープのような簡便な媒体が無く、殆どすべての番組が生で放送されていました。それだけにおもしろいエピソードがいろいろあったそうです。

 今でこそ「生放送でお送りします」と勿体をつけて騒いでいますが、もともと放送とは生が当たり前だったのです。放送業務経験のない私にはわからないことですが、現場はおそらく緊張の連続だったと想像できます。

 報道、音楽、朗読、スポーツ中継、学校放送など多種多様な番組構成でした。その中にドラマもあり、擬音効果など独特の職人を産み出す力にもなっていました。

 ドラマも当然生放送で「君の名は」も毎回、出演者はもちろん、伴奏の奏者も現場に顔を揃えていたといいます。テーマ曲を作曲した古関裕而は、やはり名ラジオドラマになった「鐘の鳴る丘」なども手がけていますが、いつもスタジオでハモンドオルガンを生演奏し、ドラマの進展にあわせて即興で伴奏をつけていたそうです。

 昨日の「のど自慢」に50年ぶりの出演という人が、50年前は予選が無く行列に並んだ順に歌い、運の良い人は放送時間に入って声が全国に流れたという趣旨の発言をしていました。生放送だからこそだと思います。

 のど自慢は現在も生が原則ですが、演出上の観点でしょうか、予選があり出演者を選んでいます。そのためかあまりハプニングが見られません。

 生放送の醍醐味はハプニングではないかと思います。ニュース放送中に原稿を落とし、あわてるアナなどの姿は愛嬌を伴っています。

 録音機のない昔の生放送と、いつでも事件、事象に対応できる体制をとるための生放送と意味は違っても、なにが起きるかわからない生放送は見ている方にとっても切迫感を感じさせます。

 それなのに最近のように演出された生放送はあまりおもしろく感じません。即興の生演奏が入るくらいの演出があっても良いのではないかと思います。

 年に数回深夜にNHKが放送する「さだまさし」の番組をおもしろく感じるのは、進行表ぐらいはあるのでしょうが、あとは彼の持つキャラクターを生かし、即興のトークに任せているところだと思います。生放送とはそういうものではないでしょうか。

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