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2009年2月

(781)戦争と平和(06.01)

 戦争が終わり60年以上を経過した年、またも沖縄を訪ねました。相変わらず那覇の空は米軍機が。
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 その昔米、英などの連合軍が日本を占領していましたが今は米軍だけが。

 小学校時代、集団疎開の生徒と一緒に金剛山越しに眺めた雨が降るような焼夷弾。その奇跡は落ちる途中で枝分かれして滝のように見えました。

 日本人立ち入り禁止の米軍基地が残されているものの、観光客が平和になった沖縄の土地を踏んでいます。
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 サイパンでも経験したここが激戦地だったとはとても思えない感慨です。ボートで沖合に出た観光客と別れ、おばあさんから戦争の悲惨さを聞かされたというガイドとその砂浜に立ちました。

 1月、泳ぎのシーズンでないため幾組かのアベックが歩いていました。この砂浜に連合軍が上陸したというのですが、今はその形跡は全くありません。
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 むしろその場所から南に行ったひめゆりの塔付近に戦火の名残をとどめているくらいです。

 戦争が起きる理由はいろいろあるのでしょうが、地球上に人類がいる限り戦火は絶えないと思います。餌を巡り、子孫を残すため動物はいつも争っています。人類も所詮は動物です。
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 日本国内の治安は比較的安全を保たれていると言っても、殆ど毎日日本のどこかで殺人事件が起きています。

 戦争は科学を発展させると言いますが割り切れない気持ちでいっぱいです。

 日本軍が沖縄の若い女学生を徴用し最後は自決させたという話、民間人が立てこもった防空壕を火炎放射器で焼き払った連合軍。そんな話を聞かされると人間の世界で起きたとは考えられません。
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 徴兵された土木設計技師の父は、本人の意志に関係なく戦火の激しいマリアナ諸島に向かう途中撃沈されたそうです。

 そのサイパンも私が行った頃にはすでに平和な美しい島となり、世界各国の観光客を受け入れていました。もっとも北端近くのバンザイクリフ付近に戦いの名残がありましたが。

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(780)記念切符

 航空機では見たことがありませんが、鉄道はイベントがあるごとによく記念切符を発行しています。しかし最近は自動改札機の普及で記念切符に接する機会が少なくなったように感じます。
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 ICカードになれば記念に保存するという効用が少なくなります。利便性が高まったのはよいとしても、残念な気もします。
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 後期高齢者でなく後期国鉄時代からJR発足時には多くの記念切符が発売されました。北海道、廃線になった広尾線。幸福駅をはじめとするユニークな名の駅がいくつかあり、その区間の乗車券や入場券が発行され人気を博しました。

 こうした切符は実際に利用されず個人の引き出しに仕舞われてしまいます。鉄道会社にすれば、列車を動かさないでもお金が入ってくるようなものです。
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 今でも地方鉄道では赤字減少のためこうした記念切符などを発売しているそうです。JRもIOカードはテレフォンカードのように、地方の観光写真をあしらったりイベントや個人のセレモニーで贈呈できるよう希望のデザインを印刷したカードを発行していました。

 それも結局ICカードの普及で使用できなくなり、記念切符のような使い方が出来なくなりました。ICカードは提携カードとして提携企業の名を刷り込んだものがあります。それでは新橋駅開業百年という種類のものが作れません。惜しいような気がします。
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 私はとくに意識して記念切符を集めていたわけではありません。それでもなにかのイベントに出たりしているうち、記念品と一緒に帰りの交通費という意味で記念切符が手渡されました。

 使用した記念切符もありますが、気の利いた趣向を凝らしたものは使用する気になれません。結果として死蔵する羽目に。
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 そういう切符を引っ張り出してみると味があります。そのうちの数点をご紹介します。

 東京駅開業70周年記念は巻物風のデザインです。横に50㎝ぐらいはあるでしょうか。裏面に東京駅の歴史が細かく書かれています。

 鉄道記念切符は子どもの立体絵本のようになっています。表紙を開くと中から機関車が立ち上がってきます。

 筑波博の切符は黒い部分がソーラー状になっており、指で押さえると鉄道唱歌が流れます。筑波博ではありませんがこれに似た仕掛けで右上の方に黒い液晶状のものがあり、そこにデジタル時計が表示される切符もありました。

 記念切符で遊ぶ。切符デザイナーはそんなことを考えながら作っているのかなアと考え込んでしまいました。

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(779)ポイント

 一時期はデパートでも近所の店でもクレジットカードを作らないかとうるさく勧められました。

 最近はクレジットカード作成はもちろん、それを断るとポイントカードはどうかと勧めるようになりました。おかげで私の財布は本来の現金よりカードの方が多くて膨れあがっています。

 ポイントカードは暗証番号の管理などに気を遣うことがありません。しかし銀行カードやクレジットカードはその管理が大変です。同じ暗証番号だと危険なのでいろいろ変えていますが、そのため自分でどのカードがどの番号だったかとか。

 自分でさえわからないのですからまずセキュリティは大丈夫と思っていますが。

 ところでポイントカードや獲得したポイントがいくらあるのか、その管理も出来なくなってきました。

 商店のものはそこで買い物をすれば累積ポイントが表示されるのが通常です。問題は通販のポイント。いろいろ分散しているため毎日確認しません。気がつくと期限切れになっているものもあります。

 期限切れのものを見てこれだけのポイントを失効させるのならなにか買っておけば良かったと悔やんだり。

 ポイントは貯まった分だけ値引きとか商品に交換できますが、それならその分最初から値引きしてくれればよいのにと考えることもしばしばです。結局はおまけなんですね。

 おまけと言えば私の小さいときからあったのがグリコのおまけ。雑誌の付録もその類かもしれませんが、甘いものが少ないとき、せっかく親に買ってもらうならグリコと指名買いをしたときがありました。

 その血筋は子どもも受け継いだようで息子はそのおまけで自分の宝箱をいっぱいにしていました。さすがに娘はそれほどの魅力を感じなかったようで。

 すでに中年の分類に入る息子は未だにガムなどもおまけ付きのものをたまに買っているようで、我が家を訪ねてくるときお土産と称してミニCDや万博会場の模型を持ってきたりします。

 ポイントカードの話ですが、チリも積もればと言うのか結構溜まるものですね。贈答時期に商品券を頂いたりすれば、普段からあればよいがなにも買うほどのものではないというような商品購入に使ったりしていました。

 ポイントも普段日用品を買うとき差し引いてもらう以外に、物珍しいものの購入に使っています。

 天気予報入りの時計とか電波時計などはクレジットカードで貯まったポイントを使って手に入れました。なかなか便利なものです。

 子供用のおまけと違い実用品が手に入るのはよいものです。でもよく考えれば結局それだけ普段高いものを買わされていたのかなと思ったり。

 ポイントカードがおまけなのか、それとも店の方が値引きしないでそういうものを押しつけているのか。

 その店における顧客の固定化を図り購買層の分析資料を作るためという趣旨はわかるのですが。そのお礼と考え深く追求する気はありません。

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(778)政治家の世襲

 議会議員は選民から委託を受け、選民のため一身を賭して働いてくれる人という考えが私の頭の中にあります。

 政治家は身銭を切っても住みやすい社会を作るため努力をしてくれるはずでした。またそれぐらいの人であれば、選民はたとえその人が赤字で苦しむようになっても、ひいては自分に降りかかる問題として寄付金を集めてでもその労に報いるはずです。

 大阪では中之島公会堂を建設した人、道頓堀を開発した人などの逸話が残っています。この場合政治家というより財界の人ということになりますが。

 本来議員はその人の信念で動いていたと思います。トップに立つ人であればその信念が通らないようであれば議会の解散も辞さないという心構えがありました。改めて選民の意志を問うというのです。

 問いかける内容のよい悪いでなく、それだけの迫力があったのです。馬鹿野郎解散の吉田茂、記者は必要ないと誰もいない部屋でカメラだけを相手に演説した佐藤栄作、最近では郵政民営化を国民に問いかけた小泉信一郎。

 善し悪しは別にしても自分の信念を貫いた人たちです。

 衆議院与党だけで3分の2という議席を占めたのは、それだけの人が小泉氏の意見に賛同したからです。もちろん麻生政権の今、一部閣僚のいうように郵政以外の問題も選挙の論点になりましたが、メインは郵政だったはずです。

 あのとき郵政民営化に反対だった人が、郵政賛成で得た3分の2の勢力を利用して、政策を決定しようというのはどう考えてもおかしいと思います。いくら郵政だけで3分の2を取ったのでないと言ってみても。ここはやはり解散、総選挙というのが筋でしょう。

 たとえここで民主党政権に変わったとしても来年は参議院の半数改選期です。現在の衆参ねじれ現象が逆の立場で起きうる可能性だってあるのです。そういう視野に立てないのでしょうかね。

 二世議員が自分の家系は政治家であると考え、それを職業と考えているのではないかという気がします。しかし職業と考えるなら、魚屋、八百屋というように政治屋というべきでしょう。

 作家は小説屋といいません。個人の才能に頼る面が大きいからです。大作家の子どもが必ずしも素晴らしい小説家になるとは限りません。

 芥川龍之介の子どもは音楽家、俳優として大成しました。芸術という面では同じ分野かもしれませんが、中身が違います。

 政治家も国民の信を背負って働く身です。いとも簡単に親が子どもに仕事を次がせるというのは、それだけ軽い仕事と考えているのでしょうか。

 もし政治屋であるというならサービスの良い魚屋や八百屋を探す庶民は、本当に自分たちにサービスを提供してくれる政治屋を捜して歩くようになるでしょう。すなわち親の得た票がそのまま子どもの票になると限らないのです。

 残念ながら海外の政界がどういうようになっているのかよく知りませんが、アメリカではクリントンのようにかつて聞いた名前がまた出てくるという時代になっています。政界の世襲制というのは世界共通の傾向なのでしょうか。

 北朝鮮のような独裁国家は別かもしれませんが。

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(777)薬草

 疎開人間だからというわけでありませんが、田舎では薬草を飲まされました。今でいえば漢方の処方に従っていたのかもしれませんが、とにかく苦いのにはまいりました。そのことは(295)の章でも少し触れています。

 戦後進駐軍のせいかすべてアメリカ風医学が取り入れられました。今でこそ問題視されているシラミ取りのためのDDT。はえ取り噴霧器のように頭や背中にたっぷり振りかけられました。あとで人体に有害な薬と指定されました。

 当時多かった結核にはペニシリンが有効とかで、多くの人が救われたように覚えています。しかし薬には必ずよい効用と逆効果の両面があり、現在はかなり慎重に取り扱われているそうです。

 西洋医学は我々素人にも比較的その効き目がわかりやすいのです。ところが東洋医学の中軸である漢方はすぐに効き目が現れません。そのためまだるっこしさを感じますが、薬害も少ないといいます。

 戦時中の田舎ではゲンノショーコ、マクリ等は乾燥させて家庭に常備してあったような気がします。腹が痛いといえば何かの薬草を煎じて飲ませてくれました。なかなか飲まないと無理矢理口の中に入れられました。

 「良薬口に苦し」といいますが薬草の苦さはいわゆるほろ苦い味と違います。しかし徐々に利いてくるというのは体に無理を与えていない証拠なのかもしれません。

 そんなことを思い出したのは今の政治のあり方からです。甘いものに慣れきった政治屋どもには思いっきり苦い薬を与えたいと思います。それとも体に害を与えないというのでは国民の思いが届かないかも。

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(776)表札

 表札泥棒が捕まったというニュースがありました。今時表札泥棒なんて。それにしても楷書で書かれたものを好んで盗んだというのは、習字の手本にでもするつもりだったのか。

 泥棒という言葉は、最近のように刺々しくすぐ殺人に走る社会の中ではユーモラスに感じられます。昔は嘘は泥棒の始まりとか、人のものを盗ればお巡りさんに言いつけるとかいったもので、泥棒の絵はなぜか手ぬぐいで顔を隠し、手に紐か包丁を持って忍び入る姿が描かれていました。

 ところで表札をいたずらする悪童が我々の少年時代にもいました。現代の表札は殆ど門柱や玄関の壁面に埋め込まれています。簡単に取り外しができません。

 昔の表札は豪族の家は別にして、一般的に黒々と姓だけを書いた厚手の板を、玄関の柱に打ち付けた釘に引っかけてあるだけでした。従って簡単に取り外せます。

 少年時代にやったいたずらというのはA家の表札を隣のB家の表札と取り替えるのです。見つかれば当然強いお灸を据えられます(叱られるということ)。それをあえてやったというのは成功すれば入学試験に合格するというおまじないだったのです。

 誰が考えそんなことを始めたのかは知りません。なぜと深く考えないのが当時の子どもです。学校で今日は何枚とか自慢そうに話す輩がいました。当時の通学路の人たちは顔を知っている人ばかり。そんな芸当は気の弱いものには出来ません。

 通学路にあるお店の人たちが登下校する学童を無意識にせよ、見守っていたことが事故の防止につながっていたのかもしれません。

 団地で隣の部屋の人を知らないという時代です。表札を見ても掛けてないマンションが増えました。一軒家でもかつてあった表札を外した跡が見られます。プライバシーを守るという意味合いだそうですが、こんなことが隣近所の間を疎遠にするのかと考えさせられます。

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(775)記念硬貨

 2010年2月、カナダのバンクーバーで開かれる冬季オリンピック記念コインが発売されるとか発売されたとかいうニュースがありました。
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 従来4年ごとの閏年に開催されたオリンピックでしたが、現在は冬季オリンピックを閏年の間に開催するようになり、2年おきにオリンピックの声でやかましくなります。

 こういう大会時に記念硬貨を発売するのも世界共通のようです。硬貨は貨幣として通用しますがメダルはそうなりません。従って記念メダルは収集家が持つだけのもの、記念貨幣は市場で一般貨幣のように使えます。
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 そういう貨幣でも世間で使われる場面をあまり目にしません。メダル同様個人の収蔵品となってしまうのでしょう。

 東京オリンピックでは大量のコイン、とくに100円貨幣が造られました。さすがに普通の貨幣同様に使用されているのを見かけたものです。

 収集しても殆ど収蔵品としての価値がなかったのです。しかし今それを使おうにも自動販売機は受け付けません。対面販売の店でしか通用しません。
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 発行元は結構いい商売になるらしく、その後いろんなイベントを捉えては記念硬貨を発行しました。高いのは昭和天皇在位60年と今上天皇即位の際に10万円金貨を発行したことがあったように記憶しています。

 本来日本の硬貨は最高500円までです。それ以上は紙幣になりますが、私は日本の記念紙幣というのを見たことがありません。外国ではスエーデン、中国、などで記念紙幣を発行したという話を聞きました。

 記念紙幣ではないのですが殆ど市場に出回らなかった、沖縄サミットで発行した2000円券は今どうなったのやら。
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 物好きな私も何枚かの記念硬貨を集めましたが、結果的に死蔵するものに1万、10万という投資をする気にもならず、中途半端な形で終わっています。

 むしろ最初のアメリカ行きで手に入れた、その時点で通用していたすべてのコインをお宝にしているような調子です。

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(774)トレードマーク

 かつての映画館。映画が始まると必ず最初に制作会社のマークが出ました。邦画であれば名峰富士をバックにした松竹、岩にぶっつかる波の東映、丸の中に文字をあしらった東宝等。

 米画ならライオンの吠えるMGM、自由の女神のパラマウント等々。このようなトレードマークを見たとたん、これから始まる映画の傾向がわかるほど会社のイメージを象徴していました。

 最近の映画にはこのようなトレードマークを見られるものが少なくなったような気がします。いきなり物語に入り途中で題名が出たりしますが、スタッフ、キャストは最後に出るなど。

 プロダクション制作に変わり映画会社の自主制作が少なくなったためだと考えられます。従来の映画会社は配給会社になりリスクを少なくしています。興業は水物と言うほど当たり外れが多いためでしょう。

 トレードマークは会社の中身を連想させました。東宝の青春もの、日活の活劇、東映はチャンバラ、そして松竹の下町ものというように。

 洋画でもそうです。MGMは豪華な装置のミュージカル、パラマウントの甘い恋愛映画、ワーナーの西部劇というように。

 トレードマークの存在意義が薄れ、今はどこの映画会社のものか差がわからなくなりました。シネコンというシステムになり、○○松竹、△△東宝という名の系列映画館が少なくなったこともあります。

 五社協定で縛った専属俳優のいる映画会社はなくなり、俳優はどこの会社にも出演します。これはテレビでも同じです。

 テレビの始まった頃、東京では野球やプロレスの日テレ、ドラマのTBS、若いタレントを擁したフジというようにそれぞれが特徴を出していました。独自に放送劇団を持つNHKは育てた俳優を使った番組を流していました。

 NHKとフジが共同制作番組のようなものを作り出す世になると、それぞれの特徴が消えてきました。画面を見て一瞬でどのテレビ局かすぐわかる人はいないと思います。同じ人物がどこのテレビにも出演しているのです。

 民放で売れたお笑いタレントを多用するNHK、NHKのドラマで売れた俳優をバラエティに使って笑いものにする民放。放送局は単に出演者の名を売らせるため電波を提供するところになってしまいました。

 1900年代終盤にはコーポレートカラーを明確にという意味で各社こぞってCI戦略を取り入れたことがありました。企業イメージを明確にしようというのです。それもいつの間にか下火に。

 企業合併が相次ぐ現在はそれどころではないようです。たとえ吸収合併をしても元の会社が持つ企業イメージを残した日本の大手航空会社、トップクラスの事務精密機器メーカーや自動車産業、大手の一部食品メーカーは、赤字決算といってもそれなりの業績を残しています。

 トレードマークはその企業をユーザーに端的に売り込んでいます。最近の金融関係企業になじみが出来ないのは、そのようなコーポレートカラーを失ったからではないでしょうか。それどころか今の銀行、保険会社名を満足に言える人は非常に少ないと思います。

 一部投資ファンドでかき乱された企業はアメリカ発の世界不況でまたも揺れていますが、今こそ企業が大切にしなければならないものはなになのか、改めて考え直すときに来ているのではないでしょうか。

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(773)新聞改革

 小泉改革はよい面、悪い面といずれの問題も含んでいました。麻生総理はその辺のところをいったつもりなのでしょうが、何しろ日本語の使い方をご存じない方。自分の思いを旨く表現できなかったのでしょう。

 このような時代になるといろいろ改革論議が起きて当然です。新聞のあり方も考慮の余地があると感じます。

 タブロイド2ページという終戦前後の新聞は内容の濃いニュースを短文で載せていました。今はブランケット40ページというボリュームです。週刊誌大に換算すれば毎日1冊の週刊誌を発行しているのと同じです。

 終戦時の詰め込み方を活用すれば、おそらくテレビ、ラジオの1日で放送する原稿を全部載せきれるのではないかと考えるほどの量を掲載できるはずです。しかし実態はそうではありません。

 新聞社の中でも広告の世界に長く浸かってきた私ですが、高齢者グループの仲間入りをしてつきあう人たちが、新聞は嵩ばかり多くなって内容が薄くなったとか、広告ばかりで読むところがないという声を聞くようになりました。

 テレビについても若者にこびたような番組が多すぎるといっています。パソコンを駆使できる世代ではありませんから、必然的に趣味の会などでの談話を楽しむというようなことになっています。

 新聞批判をされると私自身同感というような場面もあり、寂しく感じます。スペースがあるからとの考えか、文章を簡潔にするわけでもなく、見出しは造語、作語というのか一般に通じない若者言葉を取り入れたり、しゃれのつもりかもじった漢字を使ったり。

 そのため新聞を読めるようになった子ども達の書く漢字、間違いを指摘すると新聞でも使っていたと言い返されます。スポーツ紙ならまだ遊びが許されるでしょうが、一般紙はもう少しまじめでありたいと思うのです。

 テレビほどの当て字を使っていないにしろ、子どもにその字が本来の字だと思い込ませないだけの工夫をして欲しいものです。

 新聞に音が無くラジオに絵がないと私はよく後輩などに言ってきました。要するにその特性を踏まえて読者に情報を送るべきだとの考えです。それではテレビにその両方があるという言い返しがありましたが、現在のテレビはその特性を使いこなせていません。

 毎週高い視聴率に支えられたバラエティ番組に象徴されるように、所詮テレビは娯楽メディアなのです。NHKはもちろん、民放も情報番組に力を入れていますが、視聴者の好みに応じたような編成、編集の仕方です。

 その点新聞は読者に情報を押しつけるのでなく、考えさせることが出来ます。そのためには考える材料を豊富に載せることが先決です。

 広告も情報という言葉を先輩から受け継いできました。しかし今のように通販が主流となればテレビ通販の方が動画と音声で圧倒的な強みがあります。大手企業の広告が少なくなり、新聞の信頼性を損ないかねない広告が多くなったように感じます。

 広告ソースはトヨタのマスコミ広告縮小に始まり、従来の大手企業が手控えだしたことでマスコミ企業に痛手を与えているのはわかります。

 しかし広告は読者が信頼し、多くの人から見られるメディアであれば自然とついてくるものです。私が殆ど見ないインターネット広告が膨らんできているのも、それがどういう対象に見られ購買に結びつくかが明確に捉えられるからだと思います。

 情報加工をどうするかがこれからの報道産業にとって重要な問題と考えています。単にページ数を増やすだけが能ではないと思うのですが。

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(772)戻るつもりで……

 東京転勤になったときはいずれ古巣に戻るのだからという考えでした。そのため大阪の自宅に置いてきたものがあります。

 大阪の自宅には当時母がいました。今すぐ必要でなければ邪魔になるだけです。母が亡くなれば弟が家を守ってくれていました。

 結局私は一度は本社に戻りましたが、またすぐに東京勤めになります。東京で一緒になった妻と子ども達。学校の都合があり関西に連れて帰らなかったため、それならもう一度というようなことになってしまいました。

 ところが頼みの弟も亡くなり、その嫁と子ども達が残されました。

 私自身はもう大阪に帰る気がないのでそのこと自体はどうって言うことはありません。問題は大阪の家の置いてきた品々です。

 今になってそれが必要というのでありません。しかし生まれてくる子供の顔を見ずに出征した父。その顔を知らない下の弟が父の写真がないかと問い合わせてきました。

 あれば複写して欲しいというのですが、重い昔のアルバムは大阪の家に置いてきたのです。フィルムが高価な時代でしたから父母と私たち兄弟の写真アルバムは3冊ぐらいです。

 私中心に貼ってあるアルバムだけは東京に持ってきましたが、あとは大阪の家です。亡き弟の嫁に連絡し家内を捜してもらいましたが、私の留守中に母がリニューアルした家の中には見あたらないという返事です。弟の家族といってもすでに自分の家ではありませんから勝手に家捜しできません。

 改めて考えてみればずいぶんいろいろ置いてきたものだと思います。小学校、中学、高校、大学の卒業証書。学校の卒業生名簿に記録されていれば障害はないでしょう。

 ところが小学校は学童数の減少で統合され、私の卒業した学校はすでにありません。中学は教育制度改革の過渡期に存在した併設中学となり、私たちの卒業で廃止されています。

 この学校はまことに不思議な形態でした。旧制中学が新制高校に格上げされた上、学区制施行により地元高校に強制転校。その高校の併設中学に1年間通いましたが、卒業証書は全く通ったことのない地元新制中学名。、

 もうこの歳になり学歴を問われることもないでしょうから卒業証書は必要ないといえばその通りです。

 祖父母からもらった明治政府発行の兌換紙幣、江戸時代から明治時代の穴あき貨幣、これは紐で束ねていわゆる子どものお宝として大事にしていたものです。

 祖父とお伊勢参りをしたことは以前にも書いていますが、朱印帳に社寺の判をもらうことを教わり、三井寺や近江神宮、京都の社寺で押してもらったもの。

 くだらないものといえばくだらないものに違いありませんが、そういうものもおそらく大阪の家に残っていないことでしょう。

 無いとなればなお惜しい気持ちがわいてきます。テレビのお宝鑑定団のような番組を見ながら、たとえそういうところでの値がつかなくても自分にとって非常に大切なお宝だったと知らされました。

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(771)昔は……

 このブログは私の思い出をいろいろ思い出すままに綴っています。当然昔はどうだったというようなことを書いています。

 家内の一言で気がつきました。「昔は良かったとか不便だったとかいっているが、自分自身の年齢もそのときと違うということを考えねば」というのです。
 
 確かにそうです。一昔前は私も若かった、科学は今ほど進んでいない。あれから私も数十年の齢を重ねています。

 社会環境は今と違います。私の頭脳も多くの知識が埋め込まれていません。

 テレビで昔の映画を放映しています。かつて見た映画はもっと感動性にあふれたものでした。改めて今それを見てもあのときの感動を感じません。灯台守を描いた「喜びも悲しみも幾歳月」に涙を流したのですが。

 それはそうです。すべての灯台が無人化され、風雨の中で命を張り船の安全を願って灯台の灯を守る必要がなくなっています。そういう時代にこの映画が訴える内容は観客の心を動かさなくなっているのです。

 対して当時は全く理解できなかった黒沢映画。今になるとその中に流れる黒沢イズムがわかるような気がします。それだけ私の精神年齢が成長したのかもしれません。あるいはその逆かも。

 人は成長するにつれ、いろいろと考え方、物事の受け止め方が変わるものだと思います。それを一概に昔はこうだった、ああだったというようなことを言えないのかもしれません。

 「昔は反対だったが流れで賛成した、でも今改めて考えると…」という人がいますが、その人も私同様時の経過で頭の整理がつかなくなっているのかも

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(770)横浜(05.05)

在京生活数十年といっても妻と横浜、鎌倉を散策することなどまずありませんでした。
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 近いのに行かない。よくあることです。埼玉県出身の妻は埼玉をあまりよく知りません。奈良県出身の私も県のすべてを知ると言うより殆ど知りません。近ければいつか行ける、そんな気分が先行してしまうのです。
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 私自身、横浜は10年に一度と言うほどの感覚です。実際はもう少し行っているかもしれませんが、横浜駅と関内、中華街とみなとみらい、横浜球場と氷川丸、相互の位置関係が頭に浮かばないのです。

 昔から感じているのは神戸と横浜がよく似ていることです。確かに山と海に挟まれた細い神戸の市街地、それに近いところもあるが平地も多い横浜、地形的に細部は異なります。

 しかし鉄道幹線の中心駅がある神戸、横浜より少し離れた三宮、桜木町・関内に市の中軸があるところ、中華街に元町、関帝廟、国際港都等があり映画やジャズがあふれる町という意味では共通点があまりにも多いのです。
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 会社員時代に連れて行かなかった妻と05年の初夏、初めて二人で出かけました。現役時代に退役する帆船日本丸の誘致合戦の渦に巻き込まれたことを思い出します。

 誘致合戦といえばニューヨークの自由の女神のような友好のシンボルをフランスが日本に贈るという話があったときも、東京のお台場か兵庫の淡路島かという運動が起き、当時の社長代理として審議会に知事と共に出席するなどの役割を課せられたこともありました。いずれも神戸にとっては実を結びませんでした。

 個人的見解ですが規模の大きさで中華街は横浜の方に分があります。一方元町は神戸が洗練されているように見えます。異人館は圧倒的に神戸という気がしています。
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 それにしても山脈が市内を横切っている神戸は山から海に至る距離が短く、平野部分を持つ横浜のような街づくりが出来ません。それだけに海を埋め立てた新しい街を創出しています。とくに大震災後の姿は大きく変わりました。

 横浜はみなとみらいを核にした街づくりが進んでいます。それぞれの持つ特性を活かした都市が新しい活力を育てるとしたら、それはそれで喜ぶべき現象です。

 上京後初めて訪れた時の横浜はまだ美空ひばりの父が魚屋をやっていた頃で、上司に誘われそこで魚料理を食べた記憶があります。それがどこだったか今の横浜では全くわかりません。

 横浜港から神戸港までの国内部分でよいから海外の豪華客船で旅してみたいという願望は一生実現しないでしょう。飛行機と同じように海外航路の場合国内だけの乗船は出来ませんから。

 それにしても同じような夢を見させてくれる雰囲気が両方の街にあるように思います。この雰囲気はなぜか長崎や函館とは違うのです。

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(769)道路工事と年度末

 毎年のことですがなぜ年度末になると道路の集中工事が行われるのでしょう。与野党の対立で予算執行も厳しいはずなのに、相も変わらずあちこちで道路工事が行われる季節になりました。

 道路はいくら頑丈に造っても大地震の陥没写真で見れば薄っぺらなものです。通行量が多ければ当然傷むのはわかります。

 それにしてもついこの間ガス工事や水道工事で修復した舗装をまたもはがしているのです。工事主体が違うと言い逃れしていますが、ガスであろうと電気であろうと道路を掘るためには道路管理者の許可が必要なはずです。

 そこで道路工事者が適切な工事時期を調整すれば無駄遣いが防げると思うのですが、これも素人の浅はかな考えなのでしょうか。

 道路情報で工事のため数十㎞の渋滞なんてコメントが流れています。一般道では車優先のせいか工事車が歩道に乗り上げて作業をしています。

 いったい日本経済は豊かなのか、貧しくてすぐ修理しなければならない道路が多いのか。

 舗装されて便利になったのは事実ですが、昔のどろんこ道ではあまり道路工事が見られなかったのも事実です。舗装する必要がなく舗装が傷むわけがないのですから。

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(768)鉄道はないが(04.10)

 東京に村があることさえ深く認識しないで来た男。多摩地方に居を構えて奥多摩にまだ村が存在することを知りました。

 東京都の面積は全国の中でも狭い方に入ります。しかしエリアそのものは北はもちろんいわゆる都心地域になりますが、南は沖縄と緯度を同じくする小笠原までの広範囲に広がっています。

 そういう島嶼地区の開発と都心の賑わいがとても同じ行政区に属するとは考えられません。格差がありすぎます。

 そんな離島地区といわないまでも通勤圏のマンション、団地などが建ち並ぶ地区で鉄道が通らないところがあります。

 約3万世帯、7万人の人口をかかえ、都心まで1時間程度で達するというのにです。武蔵村山市です。市内の公衆交通網は路線バスとコミュニティバスだけ。昔は軽便鉄道があったそうです。

 実は近くにいながら知らなかった武蔵村山について、そういう知識を与えてくれたのは村山市内を歩くウオーキング大会でした。
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 ミカン畑があれば茶畑がある。梨農園があり、温泉がある。時代の波に勝てず最近店を閉じたそうですが造り酒屋もありました。

 青梅街道が市内を縦断、さらには新青梅街道も。市内を歩いてみていろんな旧跡に巡り会いました。人道になった旧軽便鉄道跡のトンネルがつながっています。

 不思議なことに鉄道が市内は通らないものの、周囲は西武、JR、モノレールで囲まれています。

 一般に市内中心部の人は交通の便があり、隣町と境を接しているところの人は交通の不便さを味わうものです。ところがここは周辺部のほうが便利がよいように見えます。

 中心部の人は駅までかなりの距離をバスに乗らねばなりません。自然に恵まれながら、ベッドタウン化しながら、こんなのどかな町が東京にあるのです。

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(767)党籍離脱

 最近の国会中継をおもしろく見ています。日本の政治、私たちの暮らしを議論する国会の論戦をおもしろがっているわけには行きません。

 それはわかっているのですが、どうも議論がかみ合わない。というより形式にはまった討論は議論にならないように見えます。

 質問者は半ば演説をぶち、答弁者を迷わすような質問をしています。結局なにを聞きたいのか。指名された閣僚はあらかじめ用意されていたようなメモを見ながらの答弁。

 議長の指名に従い、いちいち登壇しての答弁で時間のロスこの上ない。答弁すれば席に戻るため、議論の応酬ということにはなりません。答弁者の顔色も相手が与党議員か野党議員かによって笑顔で答えたり、木で鼻をくくったような返事をしています。

 質問に直接関わらないと見た大臣は横の人とおしゃべり。なにを話しているのかそれぞれの席にマイクを仕掛けて欲しいものです。

 いつも不思議に思うのは衆・参両院議長は党籍を離脱した立場で議会運営をするのに、閣僚は所属政党を背負っていることです。内閣は政党を背景にするのでなく、国民を背景にして欲しいものです。

 議会で議論された事柄をまとめ上げ、実施に移すのが内閣、その責任者が閣僚というのであれば、所属政党を離脱した方が一般国民にわかりやすいような気がします。もちろん民間人大臣は別ですが。

 与党支持の人、野党支持の人、いろんな人がいます。しかし今の形だと選挙の結果野党になった議員の支持者は、次の選挙までその意見を聞き入れてくれる人が全くいないことになります。

 大臣は公務員です。公務員は一党一派に属しないというのが本来の姿ではないでしょうか。

 野党の意見を無視する現状、歩み寄りを見せない姿勢もどうかと思いますが、両院議長のように出身母体はわかっているものの、党籍を離脱していればいくらかは与・野党公平に見る目があるといくらか安堵の念をもてます。

 せめて閣僚も党籍を離脱できないものかと思います。何しろ日本国民は欧米諸国のように直接首相を選べないのですから。

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(766)浅間の降灰

 09年2月2日の早暁、浅間山が小爆発しました。

 上京してからほぼ半世紀。その間浅間は言うに及ばず、伊豆大島など関東近辺の火山は結構爆発を繰り返しています。

 30年ほど前は富士山大爆発の恐れという噂が流れたこともありました。幸いというか、今のところは富士の爆発は免れています。

 弟が鹿児島勤務の頃、桜島の降灰がひどく洗濯物を干せないと彼の妻がこぼしていました。なんでも常時灰が降ってくるというようなことでした。
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 浅間山は軽井沢などに行くとよく眺められます。山に登ったことはありませんが、鬼押し出しや近くの牧場から眺める連峰は、いつも雲がかかっているのか噴煙なのかはっきりしない姿が見られました。

 そんな周囲の環境ですが降灰を意識したことがなかったのです。

 今回は小爆発、100キロ以上離れているというのに初めての降灰経験をしました。今私は車を持っていませんが、周囲の家の車は薄く白い灰が溜まっています。朝から洗車する光景が見られました。

 我が家もベランダの強化プラスティック屋根は灰が溜まっています。しかし大屋根に接した部分で洗い落とすことが出来ません。次の大雨に期待するしかありません。

 雪だと融ければ自然に汚れも洗い落としてくれるのですが。火山の灰は粘りがあり白くなった手すりを拭いてもすぐきれいになりません。世の中、なかなかそう甘くはないようです。

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(765)通信簿

 毎年、学生の卒業時期になるとなんとなく世の中があわただしくなるように感じます。

 私の経験でも小学校から大学まで、いつも自分自身追い込まれるような気持ちでした。小・中学などの下級校では上級校に無事入れるかどうか、大学では就職がどうかなど。もっとも就職に関しては、1月頃にその年の4月からの行き先が決まっていないようならもう見込みはありません。

 しかし上級校狙いの場合はこれからが勝負です。というのも私たちの頃は入試が年が明けてからあちこちで行われたものです。推薦入学制度なんてありません。その代わりというのか、全国一斉入試になる国立校は別にして、公立、私立は日を変えて入試がありました。

 すなわち併願が可能だったのです。ただし入学が決まれば定められた日までに入学金を納めねばなりません。

 1月に一流私立、2月初旬に国立1期校、下旬に国立2期校と公立校、3月は私立二流校というような具合です。

 自分のことでいえば1月の試験に合格、しかし狙いは国立です。国立試験の前日が私立校の入学金締め切り日でした。

 幸か不幸か国立に落ちて入学金は無駄になりませんでした。推薦入学のある今はもっと大変のようです。子ども達の進学でもかなりの出費になってしまいました。

 それでも何とか子ども達によい教育を受けさせたいというのが親の願望です。

 学校ではそれぞれ呼称が違うのかもしれませんが、通信簿というのがあります。幼稚園でもありました。さすがに幼稚園児代は成績はなく園と父兄の連絡簿でした。弁当の食べ方に時間がかかりすぎるのでもっと少なくというようなことを書いてあります。

 尋常小学校最後の入学生になりましたが成績は「甲・乙・丙」でした。国民学校になった2年から10点満点の点数制、戦後の旧制中学、高校は5段階評価が採用されましたが「秀・優・良・可」という評価方法もありました。どちらが先にあったのかどうかは記憶が定かではありません。

 高校卒業の段階で、大学への内申書は「秀と優がいくつ以上なければ」というようなことを言っていましたから、そのときはそういう評価法だったのでしょう。

 高校で不可という言葉を聞きませんでしたが、大学の評価には不可がありました。ただこれは就職の際には記載されません。可は合格点だが不可は落第点という考えでした。落第点ですから不可の付いた科目は再履修しなければなりません。

 その結果不可という文字は消えてしまうのです。問題は可です。可は曲がりなりにも合格点。その結果永久にこの評価は残ります。

 危ないと思えばあらかじめその学科を捨てて、自ら不可をもらう学生もいました。それのほうが安全なのです。

 そもそも人間を評価するのは間違っているという学者達がいます。確かにどんな人でもどこかに優れた点を持ちながら欠陥もあるというのが普通です。それをある側面から見ただけで評価してしまうのは危険だと思います。

 しかし人の良い点を見いだすためにも、その人の持つ良し悪しを見分ける評価が必要になります。そういう意味で私は人を評価することは大切なことだと考えています。

 むしろ現代の傾向のようにあるグループ内で、出来るほうか出来ないほうかといったような相対的な比較でなく、点数のようにはっきりとランクづけた方が平等かつ客観的でないかと考えています。

 日本人的な特性かもしれませんが、どうも物事を曖昧に判断しようという日本の気風がこんなところにも表れているような気がします。

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