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2009年3月

(798)FM放送の本質

 2009年3月1日、NHKはFM放送40年という節目を迎え特番を組んでいました。

 FMの売りは音楽放送などをステレオ音でさながらコンサートホールにいる雰囲気で聞けるということでした。しかしそれは音楽を聴けるように設計された立派な部屋がなければ無理というのがすぐにわかりました。

 音響機器店には立派な視聴室が設けられています。そんな設備を一般家庭に作ることは出来ません。結局それまで一部の中波ラジオ局が実験していた2台のラジオで左右の音を聞き分ける方法よりいくらかマシという程度のものです。

 NHKは第1放送と第2放送、民放は当時友好関係にあった文化放送とニッポン放送で左右の音を振り分けて流し、聴取者は2台のラジオを置いて聞くという方法です。

 のちにTBSなどのラジオ局が一つの周波数帯の中で左右の音を同時の流し、受信機側がその音を分離して左右のスピーカーで聞き取るという形式の放送を始めていますが、結局FMの普及でこれは廃れてしまったように思います。あるいは今でもやっているのかな?

 FM放送はNHKと民放で全く進む方向が違っています。NHKがクラシック音楽を重点に歌謡曲、演芸、ドラマと多岐にわたり聴取者の好みに応えようとするのに対し、民放は英語混じりのDJ番組中心で若者にターゲットを絞っています。

 私も車中などでFM放送を聞くことがありますが、民放のそれは全く聞きません。語りも音楽も全く理解できないからです。

 最近は防災をかねていわゆる地域FM局があちこちに出来ています。これは便利です。観光地などに出かけたときでもごく限られたエリアが対象だけに、その地域のイベント情報や交通情報を提供してくれます。

 その土地情報を持ち合わせていない人に役立つと共に、地域住民にとってもいざというときの緊急情報を得られるメリットがあります。

 FMが特定ファン層に対する情報源という特性を活かしながら、片や若者というターゲットに音楽を、片や地域住民とそこに訪れた人に対する生活情報源としての存在、FM放送の本質が見事に活かされているように感じます。

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(797)民間放送の功罪

 民間放送が始まった頃、NHKや官公庁は商業放送と呼んでいました。かなりの期間放送用語に使っていましたが、民間放送で売れたタレントを使い、民間放送に似たような番組を作るようになれば自然と一般的な「民間放送」と呼ぶようになっています。

 そんなことはどうでも良いのですが、テレビ朝日などは開局50周年記念番組と名付けた特番をくんでいます。テレ朝は日テレやTBSに比べ遅くスタートしたため在京他局は50年以上の歴史を持つことになります。

 それにしても日本のテレビ界、放送開始以来半世紀を過ぎたのか他改めて感慨にふけります。広告量は先輩報道機関の新聞をたちまち追い抜き、今のところあらゆる広告媒体中トップの座にいます。

 電波が民間に開放されたのは1951年、名古屋の中部日本放送、大阪の新日本放送などのラジオに与えられています。いずれも大手新聞社がバックアップして設立されました。

 テレビ放送が始まる段になり、各出資新聞社はそれぞれ独自の放送免許を得て東京放送、新日本放送は毎日系のTBSや毎日放送に名を変えています。

 民放の力がついてくると映画や演芸に深く影響し、それぞれ放送時間を意識した制作となりある意味でファンとしてはおもしろくなくなりました。映画は1時間50分、2時間10分程度に収まるよう作られるのが多くなりました。中でもテレビ会社が映画制作に乗り出してからはなおその傾向が顕著です。

 だらだらとただ長いだけの映画があったことも否めません。冗漫な映画がなくなったのは喜ばしいことですが。漫才や落語は10分、20分ぐらいに収まるようカットされ、充実した古典はなかなか聞けなくなっています。

 若い人に受けるお笑い芸人は古典を演じきれなくなっています。局は局でスポンサーの意向重視。視聴者は置いてけぼり。

 とはいうものの民放がNHKしかなかった放送業界を刺激し、多種多様な番組を作り出したのも事実です。

 それまでのお知らせ調アナウンスがなくなり、「光子の窓」のようなバラエティ番組は新鮮さを感じさせたものです。

 東京ではたまに放送される地方局のがんばりも見物です。何事も競争がよい産物を見せるものと感じます。ただ民放に信頼性を感じることが出来ないのはあまりにもやらせ的なことが多いからでしょう。

 相撲の八百長を非難する前に自分たちの行いを正すことが先決と考えてしまうのですが。

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(796)マッチラベルのこと

 先にブックマッチを取り上げましたので、今回は宣伝用箱形マッチについて。

 持ち運びの便利さから最近はブックマッチが主流のようになりましたが、箱形は折れたり潰れたりしにくい点の有用性があります。マッチを擦る薬も箱の横にあれば擦りやすいのですが、ブックマッチはコツを心得ねば発火しない場合もママあります。
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 ところで宣伝用としてデザインする場合はブックマッチとは小型マッチとどちらがよいのでしょう。こういう問題は人の感じ方の問題なので判断が分かれるでしょうが、私はデザイン面ではブックマッチの方がしゃれたものが多く、訴求内容の表現では箱形の方に分があるように感じています。

 旅館はその建物を写真やイラストで、料亭は店のロゴを大きく打ち出しています。地元の有名人物を使ったもの、店の紋章のようなものを描いたのは格式を誇るためなのか。

 土地の風物を浮世絵風に描いたものは使い捨てるのが惜しいような気がします。

 マッチからライターへの流れに即応して、最近は店で100円ライターをプレゼントされることがあります。一応店の屋号や電話番号が入っていますが、スペースの関係で詳しい情報が入っていません。

 本来の用途でマッチは過去のものになったのかもしれませんが、宣伝媒体としてはおもしろい存在だと思います。そういえばサスペンスドラマなんかでもポケットにあったマッチが問題解決に導くというようなシーンを再三見ます。ということはマッチを収集するのはこんなところでも危険をはらんでいるかも。

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(795)雑誌について

 毎日の事象を詳しく伝える新聞は多くの固定読者を持ち、日刊新聞の休・廃刊は殆どありません。それに比べ比較的固定読者が少ない雑誌の休・廃刊はかなりの数にのぼります。

 もっとも時の社会状況を見ながら機を見るに敏感な発行者は、新しい雑誌を続々創刊させますから会社そのものが消えるのはまれです。

 読者も自分の成長に合わせ読み慣れた雑誌の購読をやめ、年齢にあった雑誌やその時代の趣味にあった雑誌を買うようになります。

 私自身キンダーブック、幼年クラブ、少年クラブ、野球少年、蛍雪時代というように定期購読誌が変わりました。

 学生時代は近代映画や映画ファンを不定期に買っていました。さすがにこの種の雑誌を定期購読するほどのめり込んでいません。雑誌社はこういう購買層を定期購読に持ち込みたいところでしょう。

 不定期購読では次の発行部数をどの程度にするかなどその都度検討せねばならず、売れ行き予測が難しいため経営に影響を及ぼします。

 一時期は母が美容院を経営したことがあったため、訪問配達のみの家庭画報や平凡という娯楽雑誌を定期的の購読したことがあります。家庭画報は私のような男性に全く用のない雑誌でしたが、平凡は芸能界の裏話などもあり楽しみにしていました。

 自分では月刊文春を内容によって買うという程度でしたが、週刊文春と週刊新潮は発刊以来定期的に駅の売店で買うようになりました。いずれも出版社の品格を保つレベルの雑誌で連載小説も時の売れっ子作家が執筆していました。

 それも会社時代が終われば読まなくなりパソコンにはまってからはパソコンに関する雑誌を内容で選別しながら読むようになっています。従って固定した購読誌はありません。

 このように見てくると確かにその時々の私に合う雑誌を買っているのです。今更PlayBoyの年齢ではありません。

 ということは出版社も大変だと思います。その時代時代、読者の年齢と嗜好の変化を読み取ってその先を行かねばならないのですから。相手が浮気というわけではないのですが、定期購読をしなくて良いのですから興味のある内容の雑誌を買ってしまいます。

 自分の愛読雑誌を振り返って、その時々の私の関心がどこにあったかを代弁しているのを感じ取れます。

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(794)マッチの盛衰

 時代の変化に伴い、かつては日本一、世界一を標榜していた産業が衰退してゆくことはよくあります。19世紀初頭に発明されたというマッチもそういう中に入るでしょう。

 日本のマッチの約70%は兵庫県で生産されたといいます。兵庫に関わりある私もなぜ兵庫がマッチ産業の中心地になったのかよくわかりません。中国貿易に有利な地勢にあったからという説がありますが、それなら九州の方が原材料にも恵まれ有利だったと思うのですが。

 戦中・戦後の記憶ではどこの家庭にも大きな徳用マッチの箱がありました。子供用の弁当箱より大きな箱です。ましてポケットに入るように小分けされたマッチは家の縁側などに転がっており、愛煙家は肌身離さず持っていたように思います。

 もし今、夜に大停電が起きると大騒ぎになるでしょう。電池式のランタン、懐中電灯は家のどこかにあるでしょう。しかしそういうときはろうそくが案外頼りになります。ところが照明用のろうそくはまず家庭内にありません。
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 例えろうそくがあってもマッチがありません。まあろうそくがなくても使い捨てライターは今時どこの家庭にもありますから、まず問題がないかもしれません。

 キッチンの熱源は殆どが自動点火。世間から嫌われる愛煙家は使い捨てライターをいつも持参しています。マッチがあっても使うところがありません。さながらテレフォンカードのような存在です。

 かつては飲食店に入ればマッチがもらえました。箱形がブックマッチに変わっても店の宣伝を兼ねたマッチはありがたい存在でした。それが今では置いていない店が圧倒的です。街頭でポケットティッシュを配っていてもマッチは?

 さすがにホテル、旅館では部屋にブックマッチが置かれています。旅をすればそういうのを記念にもらってくるのですが、やはり使う場がありません。

 そういえば昔西部劇を見ているとガンマンがズボンで硫黄マッチを擦り煙草に火をつける場面をよく見ました。格好良く見えましたが、毒性と発火しやすい危険性から現在は禁止されています。

 マッチ収集は保管の危険を感じ、あまり多く持っていません。久しぶりに虫干しのつもりで保存箱を開けてみました。その中からブックマッチを並べてみました。

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(793)長寿番組

 「のど自慢」については(347)回のところで書きましたが、元々「素人のど自慢」と素人という文字が入っていたように記憶しています。

 放送記念日近くなると年間合格者の中から地域別予選を通過した人たちが、内幸町の日比谷公会堂に集まり全国大会が開催されました。

 当時の全国大会は2部か3部構成になっており、1部歌謡曲、2部歌曲、3部民謡俗曲のように分けて審査していました。演芸部門があった時期も存在したように思いますが記憶は確かでありません。。

 1046年から始まったという超長寿番組です。演出方法などいろいろ当時と変わってきました。もっとも開始当初はラジオ放送ですから詳しい様子を目に出来ません。それだけにアナウンサーの情景描写が素晴らしく、耳で聞いている人が会場の雰囲気を推し量ることが出来ました。

 長寿番組はスポンサーの顔色をうかがわないで済むNHKに多いのは当然です。そんな中で民放にも長寿番組があります。

 テレビに先駆けて始まったラジオで放送開始時から現在も続いている番組に「歌のない歌謡曲」があります。「QP バックグラウンドミュージック」も長寿番組でしたが、現在は不規則放送になっています。

 「歌のない歌謡曲」は私の学生時代、当時大阪梅田の阪急百貨店ビル屋上に増築した新日本放送(現毎日放送)スタジオで公開録音を行っていました。中澤壽士が指揮するバンドの演奏は私に軽音楽のすばらしさを教えてくれました。

 番組は今も続きTBSラジオで聞いていますが、放送時間が短縮されすべての曲にメッセージがかぶって聞き苦しくなりました。

 テレビでは桂三枝が司会する「新婚さんいらっしゃい」が最たるものでしょう。71年1月の放送開始というから40年近くも放送されていることになります。

 だらだら長くやれば良いというものでありませんが、さすが長く続く番組はそれだけの味と風格を感じさせるものです。

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(792)都合悪ければ

 都合の悪いことは隠してしまう。いつの時代でも同じだと思います。私たちも子どもの頃から不利なことは親にも先生にも言えず黙っていたものです。そのため真相究明に時間がかかったことも事実です。

 戦争中の先生達はこういう時「連帯責任」ということで全員を並べピンタを張ったものでした。それでも真に悪いものを名指したり告げ口をしないという暗黙の了解が成り立っていました。

 現在社会のリーダー達はそういう経験をしていません。不都合なことを隠すのは昔も今も同じです。しかしすぐわかることを隠蔽したり、他人に罪を着せようとするのは現代社会の特徴のようです。

 昔のように何事も隠し通すのがよいことと思いません。しかし場合によっては他人を陥れるのでなくかばい合う連帯感が必要なときもあると感じます。結局自分が可愛いという思想が蔓延していると考えられます。

 永久雇用が当たり前のようになっていた時代の企業は従業員とその家族を会社は一義的に考えていたものでした。会社をつぶすことは従業員家族を路頭に迷わせるという考えが経営者側にあり、それが日本経済の発展を支えてきたように思います。

 ファンドの台頭で企業は社員のためでなく株主のためにあるという考えが強くなりました。そういう風潮がこういう不景気な時代にはマイナスに働いているような気がします。

 政治家や官僚もまた国民より上を見ての仕事ぶりが目立ちます。政治家が国民に目を向けるのは選挙の時だけ。そのためにもっと名を売りたいでしょう。こまめに選挙民の集会に顔を出して挨拶をします。

 そのくせなにか悪い面が明るみに出ると急に顔を隠し、個人情報を理由に問題点を隠そうとします。個人情報を大事にするのならパソコンに入力されたデータの扱いをもっと慎重にして欲しいと考えますが、電車の中に忘れたりするような扱いをしています。

 芸能人にプライバシーがあるかないかと問題になったことがあります。ファンにつけ回され、自宅まで押しかけられたり。それでも自分で自宅内をテレビなどで公開するような人もあり、かなりオープンになっています。

 政治家も国民から注視されていて当然。家族関係などは別としても、本人の行動はプライバシーの面で制約を受けてもやむを得ないでしょう。都合の悪いことは隠し、宣伝になることだけを大々的にPRするのは許されないと思います。

 自分に都合の悪いことは隠し立てする。私たちも幼い頃からやってきたことはいえ、やはり自分を育ててくれる人の前では隠し事のないのが一番。今になってそう考えるようになりました。

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(791)長崎(06.10)

 学生時代に立ち寄った長崎は赤線地帯などが残っていた時代です。「赤線」とは情緒のない呼称です。「花街」の方がなんぼか…。台風後で木がなぎ倒されていたり、街が荒れていたため山の上からその辺りを眺めただけでした。
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 学生時代と変わらないのは長崎本線が単線のまま。特急列車が行き交うほどの賑わいなのに。近い将来に開通するはずの長崎新幹線に任せようというのか。

 それでも長崎は原爆の陰を残しながらも発展を遂げていると見受けました。観光客も大勢詰めかけていたのは観光イベント開催中だったためか。

 学生時代に見たグラバー邸、どこか様子が違うのです。造りは変わっていないと思うのですが。エスカレーターが通じたり、邸の中を展示させるようになったためか、脳中のイメージが違いました。

 それに比べれば隣にある大浦天主堂はあのときのまま時代の移り変わりを見下ろしていました。

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(790)初めての入れ歯

 小さいときから引っ越し先でまずさがしたのは歯科医院。というほど歯が弱いのは歯磨きを怠ったからかもしれません。

 学校で1日3分は歯を磨くものと教わり、実行しました。朝起きがけの洗面時に。昔は朝目を覚ませば顔を洗い歯を磨くというようにしつけられていたのです。

 今のように目を覚ましたときより食後1日3回という方法は習わなかったような気がします。いずれにしても虫歯に泣かされました。

 社会人になり時間に不規則な生活となれば洗顔時の歯磨きだけでは済まないのに、1日数回も歯を磨く時間がありません。同僚なんかも同じだったと思いますが。相変わらず朝の洗顔時のみの歯磨きです。

 その効果はてきめん。歯医者と親戚づきあいのような関係になってしまいました。1日食後3回、3分の歯磨きを勧められました。結局結婚後数ヶ月、家内に食後の歯磨きを促されるまで実行できませんでした。

 歯が傷み出すと進行が早く、たちまち数本の歯を削ったりかぶせたり。そしてとうとう歯を抜かねばならなくなりました。当時医者も早く抜いた方がほかの歯に影響しないという考えでした。

 抜いたあとは入れ歯をしなければなりません。初めてブリッジを掛けたのは東京で一人暮らしを始めた頃ですから二十五・六歳の頃だったと思います。

 そのうちに歯が痛くなればすぐ抜いてくれと要求するようになりました。実際、長々治療に時間をかけるより抜いて入れ直してもらった方が早いのです。

 結婚前にあるときかかりつけの歯科医は、あごの骨に入れ歯をくっつける技術を習得したとかでそれをやってみようと、差し歯を固定する手術をやってくれました。

 確かにしっかり固定され歯も磨きやすくなりました。ブリッジのように余計な金属も目立ちません。かなりの経費がかかりました。もちろん保険適用外です。

 神戸に戻ったときも同じ方法で歯を入れてもらいましたが、その後歯槽膿漏の進行激しく土台の骨が弱ってしまい、最近はブリッジになってしまいました。もっともあのときに植えた歯の一部は今も残っており、元は取り返したような気分でいます。

 今のところ総入れ歯にならずに済んでいますが、医者からはブリッジを保たせる歯も弱ってきているので、この先はわからないと脅かされています。

 内臓にまだ欠陥のない私も、目、歯の類は損傷が激しいのかなと考えさせられるようになりました。こういう時、内科医も歯科医も言うことは同じ。「お年ですからねえ」

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(789)初めての眼鏡

 近視が遺伝かどうかはともかく、父は30歳代で眼鏡を掛けていました。母は老眼を掛ける年になるまで眼鏡を掛けていた記憶がありません。

 にもかかわらず私たち兄弟はすべて早くから近視鏡の世話になっています。男性系の遺伝なのか。

 私の子どもは二人とも眼鏡党。自慢になりません。家内は遠視。二人でまともな形を見ています。

 考えてみれば私が初めて眼鏡を掛けたのは高卒後です。浪人生活中に目がおかしくなり新聞の活字が読みにくくなりました。当時の新聞は15段組1段15字詰め。1倍活字が現在新聞に使われている活字に比べかなり小さいものでした。

 当時多くの大学入試に新聞社説が引用されました。各紙の社説を読んでおくのが入試に有利な効果をもたらします。その字が読めないとなると問題です。難しくて読めないのではなく、活字がぼんやりしているのです。

 私の場合は近視ですから新聞・雑誌は読めます。ところが映画のスーパーが読めません。翻訳文字を読まず、セリフを生で聞いていれば英語の勉強になると言っておれません。

 いつの間にか映画館ではスクリーンの間近で見るようになりました。眼鏡がないからです。かなりの間眼鏡なしで我慢しましたが、入学すれば黒板の字が読み取れないのに気づき、眼鏡を作ってもらうことになりました。

 最初の眼鏡はある場目を見れば思い出すのですが、銀色縁の丸形眼鏡、作り直しているうちに縁のない形に変わっています。

 今は再び縁がありますが、横長の楕円風カットしたレンズを使っています。

 なかなか眼鏡を掛けなかったのは若い時代のこと、格好を気にしていたのです。時代が変われば眼鏡もファッションとして取り入れられ、子どもの頃耳にした「だて眼鏡」が復活したような。

 サングラスはその典型的な例だと思います。大胆なデザイン、眼鏡をしている側からこちらの顔が見えても、こちらからサングラスの人物が何者か特定しがたいことがあります。挨拶をされてアレッという場面も。

 自分でもスイスの山へというときにサングラスを買いましたが、本来の眼鏡に重ねるのは気が重い。現役の時は近視に乱視、薄くカラーコーティングをした眼鏡を使っていたことがありました。

 夜の運転は対向車のライトがまぶしすぎます。そのためカラ-コーティングしたのですが値が張りすぎます。結果として別注になるのですから。

 私の20代前半からの付き合いですから眼鏡との付き合いはちょうど半世紀になりました。

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(788)本会議はセレモニー?

 いつも感じること。それは国会の本会議というのはなにをするところか。

 だいたいそれまで委員会などで討議されたことを最終的に国会全体の意志として、決定する機関であることはわかります。それなら委員会で賛成を得たとしても、全体の意見は違うという場面があっても良いはず。

 現実にそんな場面があったことを私は見たことも聞いたこともありません。もっとも私は国会のすべてを知っているわけではありません。

 しかし国会について知っている範囲では委員会にかかるまでに与野党の関係者が走り回り、おおよそのお膳立てをした上で委員会にかけ、本会議に上程するという手段が執られています。

 すなわち委員会にかかるときにはその法案が通るか否決されるかおおよそのめどがついており、本会議では委員会の結果を追認するだけです。

 あるいは国民に対して、テレビの前で格好をつけるだけのように見えます。そのため下工作にかかる時間が一番長く感じます。それなら下工作、お膳立てをする議員だけで法案を決めてしまえば議員数も時間も、そして国民が払う税金ももっと短縮されるでしょうに。

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(787)消えゆく列車

 ブルートレインが無くなります。といっても私には今ひとつ感慨というものが浮かばない。

 それも当然、というのはおよそ利用する機会がなかったからです。それでもなぜか寂しい気持ちもあります。東京、大阪を結ぶ夜行列車がなくなるという意味で。

 新幹線のない頃夜行急行だった「銀河」で上京しました。車体はブルーでなくくすんだチョコレート色です。当時はSLのすすがついても目立たないというので、そんな黒っぽい色の列車ばかりでした。

 中央線沿線に住むようになり、オレンジ色の電車が走り出しました。オレンジ色というよりピンク系統の色だったような気がします。京浜東北線などはまだ黒っぽい色の電車でした。終点は「高尾」でなく「氷川」という駅名でした。

 中央線の車体は暗い国鉄イメージを明るくさせました。山手、京浜東北など各線にカラー電車が走り出しました。

 その中央線カラー、オレンジの車体もまもなく姿を消すそうです。同じ色の電車が走っている大阪環状線はどうなるのか?中央線のイメージカラー、オレンジ色は新造車両に帯のように車体を囲んで残されています。

 東京地方では中央線が最も早く国鉄カラーを脱した色彩を取り入れたと記憶しています。ところが軽量の新型車両を導入するのは最後になってしまいました。なぜなのか。

 ブルートレインも従来型の中央線車両も姿を消すとなればとたんにカメラを抱えたファンが集まります。中央線のように車両を入れ替えるのはまだしも、ブルートレインは完全に消えるのですからファンとして名残を惜しむ気持ちはわかります。

 それなら普段からもっと利用していればとつい考えてしまいます。新幹線で急ぎの旅を好む人ばかりでないのですから、寝台特急の利用客が多ければ簡単に消えてしまうこともなかったでしょう。

 近いうちに北海道も新幹線でつながります。大阪や東京から走っている豪華寝台特急がどうなるのか。もっともこれらの列車は今のところ順調だそうです。展望車、食堂車、シャワー付き個室など贅をこらした列車だからかもしれません。

 料金、時間の点では航空機、あるいは新幹線に負ける在来線。しかしこうした贅沢な旅もあって良いと思います。航空機より庶民的だったはずの船の旅。今は超豪華客船が評判を呼ぶ時代です。

 利用機会のない私もブルートレインに数回乗りました。いずれも東京から大阪まで。たしか東京駅を19時か20時頃出発する「あさかぜ」だったと思います。

 東京寄り最後尾の1車両だけが寝台のない座席指定の車両でした。大阪は深夜の1時半頃に到着します。そこから豊中の家に帰るにも電車、バスはありません。結局タクシーを使います。

 ブルートレインといっても夜間車内の人になる私たち乗客には何にも見えません。最近色鮮やかにラッピングした飛行機が多くなりましたが、乗客側からはなにも見えないのと同じことです。

 そういう意味でブルートレインの座席車に乗っても所詮普通の夜行列車です。食堂車がありましたが、最後尾から中間につながれた車両まで行くのなら一眠り。大阪駅で降り損なわないように。次の停車駅は岡山だったと思います。

 そんな思い出をブルートレインに抱く男がいました。

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(786)どんと焼き

 今年もはや3月を迎えましたが、降雪を見たのはわずか2回ぐらい。今のところ1度も積雪がありません。

 雪が積もっていれば出来ませんが昔はちょっとした広場で「どんど焼き」をやりました。お宮さんの境内などは絶好の場所です。

 燃えやすい藁などを積み上げ火をつけます。大きく、高く積み上げればそれだけ大きな炎が空中に。

 本来はお正月の飾り物などを焼くのですが、炊き上げるのに適当なものがあれば随時どんど焼きをしていたような気がします。もっとも大人の人が必ずそばにいるのが条件です。

 藁の下にサツマイモを埋めておくと、火が消える頃には旨そうなにおいをまき散らします。ちょうど食べ頃になっているのです。

 我々は「どんど焼き」といったように覚えていますが、関東の方では「どんと焼き」といっているようです。どちらでも話が通じればそれでよいのですが。

 悪童どもは芋を埋める格好で栗を忍ばせます。これは危険です。熱くなると爆竹のようにすさまじい音を立てて破裂します。はじけ散ってしまいますから実を食べることなんて出来ません。

 火の番をしてくれている大人を驚かせて喜んでいるのです。怒った大人は悪童を追いかけます。そんなことをしながらお互いやって良いこと、悪いことを教えられるのです。

 最後の火消しは子ども達も手伝いバケツの水を掛けます。

 広場が無くなり、近所との交流が薄れ、火遊びは危険という単純な結びつきでこうした風習も、正月の神社境内ぐらいでしか見られなくなりました。積雪の見られない土地が増えてきたというのに。

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(785)5・5・3

 世界各国が自国を守るため軍備を拡充するのは当然です。欧米の強国がアジア、アフリカに植民地を築く時代がありました。侵略を防ぐために軍備を備える動きが高まります。

 そこで列強各国は軍備を制約しようと軍縮会議を持つようになりました。日本も大正時代中期頃からこうした渦に巻き込まれ、軍縮の対象になります。

 戦争を回避するために一見有効に見えます。しかしこれほどあやふやなものもありません。いつに時代にもすぐ決められたことを破る国がでます。

 テーマの5・5・3はワシントン海軍軍縮会議で取り決められた主力艦保有比率で、英・米・日に割り当てられた比だったと思います。ちなみに仏、伊はそれぞれ1.7でした。

 私はどうしてこういう比率が計算されたのかわかりませんが、国の大きさから見れば日本はかなり譲歩された数字だと思います。

 しかし同じような海に囲まれた英国と日本を比較すると合点が行きません。国の大きさもそれほど違わないように思うのですが。明らかに違うのは英国が東南アジア地域に広大な植民地を持っていたことでしょう。一方フランスはどうしてこれほど少ない比率になったのか。

 最近でも核問題を中心に先進国がリードしていろんな軍縮問題が討議されています。問題点が解消されればよいのですが、物事はそう簡単に進んでいないようです。

 先の英・日の比率差がすでに植民地を作っていた国に有利といえば、核問題も似た傾向が見られます。核廃絶は日本人であれば皆考えていることでしょう。だが世界の人にそれを認識させるのは困難です。

 そもそも早くから開発していた国はある程度の保有を前提にして、他国にはその保有を禁じようというのですから勝手なものです。

 国際会議というものは国の規模や先進国、後身国の区別無く、平等の立場で始めねばなかなか纏まらないという気がしてなりません。

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(784)サクラサク

 漢字で書けば「桜咲く」です。これは一昔前にはやった電報文。

 私の高校受験は旧制中学が昇格したため旧制中学生は無試験。従ってこういう電報文に接する機会は中学と大学の合格発表の時だけ。

 といっても中学受験は終戦翌年の春。電報屋さんが校門にいたかどうか。

 中学で覚えているのは校門前に机を並べ制服と革靴を受け付ける学校指定の業者。革靴といっても豚皮です。万年筆も売っていましたっけ。

 世情が落ち着いてきた頃の大学合格発表日は校門付近に電報局か郵便局だったかはよく覚えていませんが、電報を受け付けていました。

 合格していれば「サクラサク」、アウトなら「サクラチル」と打つのです。あらかじめ予約してあればわざわざ現場に赴かなくとも係員が代わりに確認、連絡先にこのような電報を打ってくれたような気もします。

 自分の目で確かめたい私は合格を確認、店を持っていた母に電報を打つこともなく、帰りに店に立ち寄り結果を知らせ、住まいに帰りました。

 今のように携帯どころか電話さえなかなか家庭に普及していない時代です。急ぎの連絡は電報の役割でした。

 子ども達の頃はどうだったのか。長男は公衆電話で知らせてきたような気がしますが、娘は帰宅するまで親は結果がわからずやきもきしていたように思います。

 「カネオクレ」は「金送れ」か「金お呉れ」かというような笑い話がありますが、カタカナの電報文は様々な悲喜劇を産んでいました。

 それにしても「サクラサク」と桜に託した電文は、ちょうど合格発表が春先というシーズンでもあり、なかなかしゃれた文章だと感心させられました。

 携帯電話の数が固定電話数を上回る現在社会では、情緒のあった電報も消え失せるのみの運命かもしれません。直截的な時代になったものと感じます。 

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(783)言葉の基本はアイラブユー

 言葉は使えば使うほど覚えるものです。使わないと忘れてしまいます。

 いろんなことに興味を持つ幼児はすぐ言葉を覚えます。日本人の親を持つ外国育ちの子どもがその国の言葉はもちろん、親の話から日本語も共に覚えてしまうのはその典型的な例でしょう。

 残念ながら年齢を重ねるほど新しい言葉が覚えられません。そういう意味で小学生から英語を教えるのは悪いことではありません。

 外国語の勉強で大人はなまじっか日本語に慣れているのが障害になっていると感じます。幼児はまだ自国語さえおぼつかない状況です。それだけに自国語、外国語を意識せず、通常の会話として言葉を覚えるものです。

 NHKの「英語でしゃべらナイト」という番組で、外人の中にいきなり放り出されればいやでも英語を話すようになると発言するゲストを時々見かけます。同感です。

 まだ言葉を知らない子どもは、それがコミュニケーションを図る手段と思えば難しく考えないで言葉をのみ込んでしまうものでしょう。しかしある程度の自国語が理解できるようになってから外国語を覚える場合は、どうしても一旦自分が理解しやすい言葉に翻訳してしまうのです。

 たまたま日本に生まれ育ったため、私は日本語が出来ます。もしアメリカで育てば英語が話せたでしょう。終戦前後に沖縄で生まれ育った人に、日本語も英語も話せる人が多いのはそういう環境だったからでしょう。

 私も一応英語教育を受けています。しかし話せません。ただたまたま外人と私という二人だけの空間になれば話さざるを得ません。いつまでも黙ってにらみ合ってても仕方ありませんから。そんな経験もしています。

 そんな会話が弾めば語彙も増えたのでしょうが、残念ながら私はその前に話題が切れてしまいました。横に少しでも外国語を話せる誰かがいればそちらに頼ってしまうのです。

 大人になってから一番手っ取り早い外国語の覚え方は異国人に好きな異性を作ること。それにつきると思います。なんとしても自分の意志を相手に伝えなければ物事が始まりません。

 I love you. ドイツならイッヒリーベディッヒ、フランス人が相手ならジュテームとなるのでしょう。

 愛をささやくのは世界中同じことです。ただ、言葉が違います。思いが世界共通の現象なのになぜ言葉がこんなに違うのか。でも現実は覆せません。

 いずれにしても外国語を学ぶなら愛の言葉が一番身近な気がします。

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(782)質屋

 戦後、母は我々三人の子どもを育てるため自分の着物を質屋に持ち込んでいました。当時はそれが当たり前の姿だったようです。

 タンスから母の大事なものが消えてゆくのを見ているのは子供心にも悲しいものでした。気がつけばタンスの中は空に。

 もう質屋に行かないでと泣いて頼みましたが、現実は厳しいものです。最近の世相を見ていると当時のことが思い出されてなりません。

 質屋は本来期限内に借りたお金を持参すれば品物が戻ってきます。その間は品物を担保にお金を融通してくれるところ。考え方によれば人情味があるとも言えます。

 もちろん戦後の混乱期のこと。おそらく担保の品を取り返した人は少なかったことと思います。

 最近時々「質流れ品」という言葉を聞きます。懐かしいと言えば懐かしい。それでもあまりいい感じがしません。

 そもそも質屋というのを見かけなくなりました。たまに古びた商店街の片隅に「質屋」と書いた看板を見かけますが。

 それでも先日どこかで見た質屋は結構きれいなショーウインドーを持った店構えでした。お買い得というようなカメラや腕時計を飾り付けてありました。

 こうなると金を貸すより仕入れた中古品を売りさばく店というイメージです。昔の質屋は顔を隠すようにして入ったようですが、今では堂々と中古品をあさるという顔で入ることが出来ます。

 むしろサラ金に入る人の方が世間を気にするようにして入っているのではないでしょうか。世も変わったものです。

 質屋はともかく、使わなくなったCDや読み終えた本を引き取ってくれる店が増えたのは喜ばしいことだと思います。狭い家に死蔵するより、より多くの人に読んだり聞いたりしてもらえるならそれに越したことはありません。

 私もそういう形でいくらかの書物やレコードを処分しました。リサイクルショップも増えているそうです。

 捨てることが経済社会を活発にすると宣伝された一時がありましたが、やはりそれはおかしい。使えるものはいつまでも大切に使うべきでしょう。

 質屋の効用も改めて見直される時期に来ているように感じます。

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