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2009年5月

(835)私物と共用物

 会社のデスクは公用のためのものという認識を私は持っています。従って現役の時から与えられたデスクがいつ誰に触られても問題のないように使っていました。

 いい格好をいっていても実は小学校時代はそうでもありません。もちろん時間割の編成でいつも教室が変わりました。そのたびに机が変わります。

 私物を引き出しに入れておくわけに行きません。一方自分のものという管理責任感が薄れます。ナイフで当時の木製の机を削ったり、コンパスの針を突き刺したりしました。

 入社当初も木製デスクでした。誰かが使ってきたものですから傷だらけです。それでも引き出しには鍵が備わっていました。平社員時代はその鍵を使いません。

 学校時代と異なり一応自分専用のデスクとして使えます。名刺交換でもらった名刺をはじめ私物的なものも収納しました。といっても自分の定期入れや銀行員のような意味の私物でなく、社用に使う私物程度のものです。

 役職がつくに従いいわゆるマル秘文書類を扱うようになります。それはそれで一つの引き出しに纏め、他の文具類や名刺などはオープンの引き出しに入れていました。

 そもそもこうした事務机は貸与されているものです。個人のものでない限り中に入っているものも可能な限り、部員達共用で当然という考えがありました。

 部員達も上司の机を勝手に開けるのははばかれるという観念があります。当然私が出張したり留守をしない限り中を見る人がいなかったと考えています。

 留守中にどうしても上司のデスクを見なければならないようなことが発生するものです。私自身も平の時にそういう経験をしていますが、やはり中を改められず仕事が滞ったことを経験しています。

 そういう自分の経験から部下に必要があれば引き出しを開けても良い、中には公的なものしか入っていないからと言い含め、ただし事後にどういう理由でなにを触ったかの報告だけを求めました。

 外で急に収納してある名刺を見て欲しい用件を思い出し、部員に電話。彼は私の要求した名刺をすぐに引き出し、内容を知らせてくれました。そのため仕事もスムーズに運びましたが、彼は彼で私の名刺整理ルールをいち早く読み取り、あれだとすぐにわかって本人でなくても簡単に見つけられるといっていました。

 しかしやはり本人が許可しない限り、他人の引き出しは触れないものだと思います。またそれが当たり前でしょう。

 私がこんな問題を取り上げたのは、考え方として会社から貸与されているものは私物でない、従って全く個人的なものを収納するのはいかがなものかということです。

 本人が急に倒れるなど予期しないことが起きがちです。そんなときその人の引き出しを誰かが開けなければなりません。いつ誰に見られても良いように身辺を整理しておかねばならないのではと考えます。

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(834)敵を知る

 戦国時代以前からの鉄則でないかと思います。武力戦争に限ったことでなく相手より長じようとすれば相手を知ることが必要です。

 太平洋戦争に突入したのは当時の軍部があまりにも世界の現況に無知識だったからでしょう。相手を知っている一部有識者も頭越しに戦いを始めた軍部には手がつけられなかったと考えられます。

 上京した私は会社で読む各紙とラジオが情報源でした。瞬く間にテレビの価値が上昇してきます。新聞にとって強敵と考えていた私は、テレビを我が家に入れませんでした。

 結婚して留守を守る家内のために初めて我が家にテレビが登場します。ある新聞社仲間は敵に塩を送るようなまねは出来ないとテレビを受け付けなかったそうです。

 いくらそんな理屈をこねていても、そんな問題と関係なく時代は流れます。テレビはマスコミの勇者となります。

 屁理屈をこねる前に我々はテレビをもっと研究すべきだったのです。現在のテレビとネットの関係は当時の新聞・テレビの関係を彷彿とさせます。

 開国前夜の日本幕府。外国について知識のある人、そうでない人。両者間で鎖国と開国について議論が割れたのは歴史で習ったことです。

 たとえ敵と見なす相手であってもその相手についての知識を持つことは不可欠です。

 跳ね返りの北朝鮮。世界を敵に回しそうな剣幕です。イラン・イラクやイスラエル地域の内戦だか民族戦争だかはっきりしませんが、争いはあちこちで起きています。ただお互いの置かれた状況等が他にもおおよそわかります。お互いに自他の言い分をはっきり公表しており、第三国でも情報が取れるからです。

 北朝鮮の場合その考えが今ひとつはっきりしない、情報操作が行き届いてなかなか相手を知ることが出来ないというところから、なおこちらがいらいらしてしまいます。

 北鮮側は世界中に情報網を張り巡らしている様子。その動きに合わせコマを動かしますが、情報網を持たない、あるいは偏った情報しか手に入らない日本側はどうしても劣勢に置かれてしまいます。

 他国の情報に頼るだけでなく、独自の情報入手を手がけなければ大怪我をするのではないかと気になって仕方ありません。

 自民・民主の党首会談を見ていて、顔色だけは喧嘩腰だがなんと中身の薄い論議をしているのだろうと呆れるばかりです。インフルエンザウイルスを防ぎきれなかった日本、他国からの人為的な攻略を受ければどうするのか、政権の独占は甘えを増幅、緊張感を薄くしてしまったようです。

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(833)花がテーマの切手

 毒のある花もありますが、どんな花でも人の心を和らげる作用はあるものと見えます。人の顔ほどもある大きな花、登山道で人の足に踏まれながらもたくましく生きる小さな花。

 手をかければそれなりに美しさを増す花もありますが、やはり自然の中で咲く花に可憐さとたくましさを見いだします。
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 そんな花々を題材にした切手がたくさん発行されています。とくに意識して集めているわけではありませんから、手元にある花の切手はあまりありません。その少ない収集品の中でも花の切手は目立ちます。

 私宛に届くわずかな海外からの郵便に使われた切手にも花をテーマにした切手が数枚含まれていました。カメルーン、モンゴリア、マレーシア。花の名はわかりませんが、それぞれその国に代表的な花なのでしょう。

 日本の切手に取り上げられたものも山桜、ヤマユリ、朝顔など古来から日本人に愛されたものが多いようです。山や野原に咲く花は哀愁をそそります。

 ごてごてしたものを好む欧米人は日本の切手を見て寂しいと感じるか、日本人の感じ方を理解できるか興味のあるところです。

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(832)電動運搬機

 幼い頃からデパートの屋上で見かけた電動自動車は現在遊園地ぐらいでしか見かけません。単にアクセルだけ、ブレーキもなくアクセルから足を離せば止まってくれる優れものです。

 危険を感じれば大人が前から車を押さえるだけで止まります。安全な乗り物の一つでした。

 先日昭和記念公園に行きました。何度も足を運ぶところですが、ここで初めてボートに乗りました。昔からあった手こぎボートのほかに足こぎボートが人気。連休の最中でどちらも長蛇の列。

 やっとのことで手こぎボートに乗りましたが、池はボートがいっぱい。思うようにオールを水に入れられません。

 一方足こぎの方は他のボートにオールを当てることもなくすり抜けて行きます。自転車のように足でペダルを踏むだけですから、ボート同士の衝突は避けられませんがオールのように占有水面は広くとりません。

 でも考えました。最近のように電動式が増えればそのうち電動ボートが登場するかもしれません。いや、あるいはもう市中に出回っているのかもしれません。

 電動だと力を使わずすいすいと動くだけに衝突事故になる危険が高まるでしょう。手足を使ってこぐのではないだけにボートどうしがぶっつかった場合、被害は確実に大きくなるでしょう。

 そういったことを感じさせるのが身障者用に開発された電動車いす。歩道を走ってきますが、歩行者を軽く追い抜いて行きます。警笛があるのかどうか知りませんが、口で「危ない、よけて」と怒鳴りながらすり抜けます。手こぎの車いすと違って重量感があり、まともにぶっつかると大けがをしそうです。

 自転車にも電動補助のものが登場しています。戦後も電動自転車が登場したことがありました。自分の手にしたことがないので仕組みを知りません。スクーターより早く世に出たと記憶しています。

 あの頃のはモーターをバッテリーで動かすもので、それが改良されガソリン燃料による自転車型のスクーターが売り出されたと思います。バッテリーの充電に時間がかかりすぎ、この形式の電気自転車はすぐ廃れました。

 今流行りだした電動自転車は10数年前に売り出されたと思います。私が会社を辞め買い換えのため自転車屋に寄ったところ店頭に置いてありました。

 試乗してみろというので乗りました。自動車のように自力で動くのでなく、ペダルを踏むと電動モーターが補助動力を作り、ペダルを踏む力を軽減してくれます。軽い力で動くため上り勾配のところでは非常に軽く進みます。

 ただ車体が非常に重くもし倒れれば起こすのが大変です。歩きながら押すにも力がいります。価格もそれなりに張りスポーツタイプの自転車と変わりません。

 それから年月を経て改良されたのでしょう。ある建材店の事務を手伝うようになり、女性事務員が乗ってきた電動自転車を借りて乗りました。車体が初期の頃と違い非常に軽くなっています。

 学生時代に運搬車といわれたタイプの自転車がありましたが、あれより格段に軽くなっています。上り勾配に向かって動かしてもすいすい走ります。スーパーの駐輪場でも多く見かけるようになりました。価格も当初の三分の一程度だそうです。

 エコの面でも見直されている電気を使った乗り物はこれからも増え続けるでしょう。自動車も電気動力に変わろうとしています。

 電気の良い面が強調されるようになりましたが、最終的にはやはり人力が一番エコにも、安全面でも優れているように感じます。問題は陸上でも人力では100メートル10秒前後の時間を短縮できません。人力には限界があります。

 他の動力によって人間は地球から宇宙に飛び出しました。人力の及ばない世界、それだけに安全面への配慮は不可欠になってきます。

 電動車いすや電動自転車が歩道を駆け抜ける時代になり、一層このようなことを感じるようになりました。

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(831)巨人・大鵬・卵焼き

 ここ1,2年、民放テレビから野球中継が少なくなりました。それまでは巨人の試合、NHKの放送日も入れればほぼ全試合が放送されている感じでした。

 大きな原因はサッカーに押され野球ファンが減少したことと、視聴率の低下によると聞きます。そのためスポンサーがつかなくなったといいます。

 アンチ巨人の私としては結構なことだと思っています。アンチ巨人どころではありません。日本のプロ野球そのものがおもしろくないのです。

 アメリカの大リーグがそれほど優れた力を持っているとは思えません。確かに戦後オドール監督が率いたマイナー級のサンフランシスコシールズとかいう球団が初めて来日、当時の日本プロ球団をたたきのめしたときは、さすがアメリカ野球だと感じたものでした。

 あれから半世紀、アメリカから野球で学ぶ点は殆どないのではないでしょうか。バッテリーはおろか、野手、打者に至るまで日本人選手が大リーグに入りそのまま通用する時代です。審判も日本人が採用されるようになったそうです。

 結局選手達は国内のプロ球団を踏み台にしてアメリカに渡り、日本のファンにあまり活躍シーンを見せなくなってしまいました。プロ野球は大リーグの下請けだったのかと考えさせられてしまいます。

 スター選手がどんどん海外に流出すれば、日本の野球がおもしろくなくなるのも必然です。ますます視聴率は落ち、テレビ中継の場が少なくなってしまいます。

 ところが今年は楽天球団がおもしろくなってきました。各球団から継子扱いをされ、万年最下位のようなチームが奮起すると俄然ゲームはおもしろくなるものです。

 今までNHK以外に見向きもしなかった民放のパリーグ中継が増えました。BSを持つキー局はその普及も視野に入れ、BSでの野球放送を大幅に増やしています。その分地上波の焼き直し番組が多かった民放BSも中身のあるものになってきました。

 まだ巨人に偏る傾向がありますが、地方球団を取り上げる局も少なくありません。

 私たちの若い頃、お子様の好きなものとして「巨人・大鵬・卵焼き」と揶揄したものでした。まさに放送局は子どもに好かれるものを中心に放送していたようなものです。

 ラジオの野球放送を聞いていても、アナウンサー、解説者、ゲストと大勢の人を登場させますが、大方は巨人寄りの放送をしていました。その傾向はNHK にも感じられたものでした。さすがに民放ほど直截的ではありませんが。

 最近の野球放送を聞き、見ているとインターネットという強敵が現れ、やっと放送界も大人になったのかなあと感じます。

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(830)男はつらいよ

 いうまでもなく一世を風靡した映画シリーズです。風来坊のような寅さんが知識の受け売りとでもいうのか、若い人たちに物知り顔で説教をします。意外に的を得ることを言うので見ている私がドキッとしたことがあります。

 私たちの世代では、男は家族のために夜通し外を見張らねばならない立場だとの教えを受けていました。今の時代は仕事がなく、家族を作りたくても作れないという世です。どちらにしても「男はつらいよ」を地で行く感じです。
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 動物の世界。雄は子供を作るだけ、子どもが出来れば群れを追われる動物。家族のため先頭に立って戦う雄。その前に雌の気を引くため派手な化粧をするもの。さまざまです。人間と共通しているのは「男はつらいよ」。

 渥美清演じる寅さん像は現代人の大半が知らない渡世人姿です。そのような人物が知識人という顔をした行きずりの人に訓戒します。両者間に違和感がありながら差を感じさせない人物が寅さんでした。

 寅さんファンなら一度はと柴又帝釈天にもお詣りしました。参道には多くの団子屋がありどれが本家か、映画のモデルかわかりません。

 それ以前に柴又のような庶民的な町、車で乗り付ければ近所の人たちが振り返る町です。そんなところに正月、マイカーで乗り付けた私も寅さんに会えば一言説教されたことでしょう。何しろ駐車場がなく街道を一駅分ほど行ったところに預けてくる状態でしたから。

 あまりよい話が流れてこない昨今。男だけがつらいのでなく、人生そのものがつらいと考える人が増えてきても仕方ないのですかね。毎日電車が人身事故を理由にストップしています。各駅停車でも良いから順調に運行して欲しいのですが。

 

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(829)松竹新喜劇

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 古い公演パンフレットを見ていると「松竹新喜劇」のパンフレットがありました。私の大阪時代から道頓堀中座を拠点に活躍していました。

 どういうわけか大阪では見たことがありません。それが年1回東京新橋演舞場で公演するようになって、ほぼ毎年行くようになりました。郷愁からというわけではないのでしょうが。

 中座に掲げられた大看板。渋谷天外、曽我廼家五郎八、十吾らの名がありました。東京で見るようになった時、劇団創立当初から残っている幹部は天外、明蝶ぐらいでした。
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 そのうち創立時の幹部が名を消し中堅だった藤山寛美が頭をもたげます。寛美のアホウ役は秀逸でした。彼が舞台に顔を見せただけで場内は沸いたものです。

 後継者なく独善的といわれた寛美の個性の強さが災いし、劇団の名が消えたのは残念です。3代目渋谷天外が「新生松竹新喜劇」を結団し路線を継いでいるということですが、まだ見る機会に恵まれません。

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(828)お百度詣り

 派手な夫婦げんかを繰り返していた両親でしたが、いざとなればやはり夫婦だったのだと思わせる出来事が頭にこびりついています。

 実家に帰った母を迎えに来た父の話は祖母から聞かされていました。応召したときは一度帰省許可が出て、母の疎開先に帰ってきました。もっともそれは死出の航海に出る前触れでもあったのですが、私にはわかりませんでした。母は気づいていたかもしれませんが。

 戦死の公報が来ても遺骨を見るまでは信じないと頑張った母。位牌と遺髪だけの箱が帰っても遺骨を見るまではと父の帰りを待っていました。

 前にも書いたように「こっくりさん」などで祈祷師を通じて父と会話を交わしていた様子は忘れられません。

 戦地から帰還した人を聞けば住所を調べ、その人のところに行ったり。私だったらそこまでやれるか自信がありません。

 とうとう私もあるいは父が生きているかもしれないと思い込むようになりました。グアムで横井さんが生きていたり、小野田さんの遅すぎた帰還のニュースがあったからです。

 大阪の石切神社などでお百度祈願もしていました。どこのお宮さんか覚えていませんが、私もつきあったことがあります。本殿前と鳥居の間を往復したと記憶していますが100枚のお札のようなものを持ち、一回回るごとに一枚ずつ供えます。結構疲れます。

 それを母は時間を見つけては詣っていたそうです。そのことを知ったのはやっと母と一緒に住めるようになった高校2年の頃でした。

 夫婦や親子、家族の絆で結ばれていなければこうしたことはとても続かないでしょう。最近の家族内での暗い出来事を聞くにつけ、わずか10年しか連れ添えなかった母の父に対する思いの深さを感じます。

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(827)浮世絵切手

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 終戦時進駐軍が大量に日本の美術品を母国に持ち帰ったという話があります。今時になって海外の美術館からそういうものが発見され、返還されたものもあれば里帰りといって美術展に特別展示されたりしています。
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 江戸時代の文化爛熟期、浮世絵の大家が次々生まれました。風景や当時の生活様式がそういう人たちによって描かれています。女性や役者をモデルにしたものも。

 歌舞伎役者の見得を切る様はいかにも絵の素材として合ったのでしょう。たくさんの作品を見かけます。
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 さすがに日本の切手です。浮世絵を取り上げた切手が数多く発行されました。とくにこういうのは海外受けすると見え、国際交流イベントなどの際によく発行されるようです。

 残念ながら海外に友人を持たない私は海外にどんな美術切手が出回っているのか、知る機会がありません。忘れた頃に海外に出向くことがあっても記念切手のようなものを調べていませんから、必要に応じて日本への郵便代にあたる金額の切手を購入する程度です。

 手元に保存されている海外切手にも美術品をテーマにしたものがありません。
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 今回は浮世絵切手を中心に纏めてみました。

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(826)子ども時代のおもちゃ

 団塊の世代が続々リタイアするというので旅行会社、金融機関などは彼らの退職金を当てにしていろんな企画を発表しています。しかしこういう景気の悪さとあってなかなか企業が考えるようにならないのが現実です。

 一方当事者は近隣の子ども達を集めて、自分たちが幼い頃遊んだ遊技を紹介しています。テレビなどでその様を見ていますが、私にも思い出せるものが数多く含まれています。

 独楽回し、たこ揚げ、折り紙など。それでも私たちの小さい頃と、団塊の世代といわれる人の間でも時代の違いが出ています。
 
 私たちの頃は戦争が激しく遊具なんてものは売っていません。殆どが手作りです。それでなければ鬼ごっこのように体一つあれば遊べるものを。

 女の子は自作のお手玉や歌いながらケンケンのようなことを。男の子はボール紙のような厚さのカードをひっくり返したり、コマを相手のコマにぶっつけて勝負を競ったり。

 遊びの名を忘れましたがじゃんけんで負けた男の子を壁際にもたれさせ、その背中に何人乗せられるかなど体一つあれば出来る競技もありました。

 私たちより少し後の代になるといくらかお金のかかったものになっています。私は理解できませんが男の子がウルトラマンセットやGIスタイルの人形を集めたり、女の子はリカちゃん人形を着せ替えて遊んだとテレビで喋っています。

 ブリキの車モデル、セルロイドの人形。今では危険と子どもの手から取り上げそうなものを持って遊んでいたものでした。そもそもそんなモノを買ってもらえる子は裕福な家の子だったのです。

 手製の紙相撲、二股になった枝をとってきてゴム紐をつけ、石を弾にして小鳥を狙ったり、新聞紙に絵を書いて双六を作ったのが我々の時代でした。竹や木を削った刀で無防備のまま試合をしたり。

 今なら危ないとみんなから敬遠される玩具で遊びましたが、不思議に今のように事故に発展したという話は聞いたことがありません。いわゆる不良少年の喧嘩は絶えずありましたから、傷害事件は結構あったのかもしれませんが殺人というのも聞きません。

 それなりの手加減があったのでしょう。いろいろうるさくいう最近の方が殺伐とした社会に見える感じがします。

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(825)言葉の曖昧さ

 日本語の難しさはよく論じられるところです。本来の日本語は漢字か平仮名か問題があるかもしれません。ひらかなは漢字を崩したもの、カタカナは漢字を省略化したものといいますから、漢字が伝わった方が古いのは容易に想像つきます。

 しかしそれは外来語、日本的にした仮名文字が日本語の原典と私は勝手に考えています。

 ところで外国人から日本語の難しさを指摘されるのは、漢字混じり文字のことではなく、日本語独特のニュアンスでしょう。「ハシ」のようにアクセントの違いだけでも意味の違う言葉がいくつもあります。

 私、僕、俺など言い回しの違う言葉、「おいでやす」「いらっしゃい」等々枚挙にいとまありません。

 さらに禅問答のように言葉の妙を遊ぶようなこともあります。外国ども訛り、方言などはあるそうですが、日本のように微妙な言い回しはあまり見かけないそうです。

 私自身、普段何気なく使っている言葉ですが、よく考えればなぜと疑問を持つ言葉がたくさんあります。そんな疑問に答える番組が放送されているそうですが、昼間や深夜らしく通常聞く機会がありません。またこちらが知りたいことをタイミング良くやってくれればよいのですが。

 とくに世話になったわけでもないのに「お元気ですか」「おかげさまで…」という会話なんぞ、考えればおかしいです。関西の「儲かってますか」「ボチボチですわ」も会話になっているようななっていないような。

 日本人同士ならお互いに日本語の機微を理解して話しています。それほど大きな間違いは生じません。

 しかし日本人の気性を理解できない外国人との会話は非常に気を遣わねばならないと思います。とくに外交折衝においては。

 先日も訪日したロシアの首相と日本の首相会談がありました。問題の北方領土問題について話し合い、内容のある会談だったと自負していますが、実態は「出来るだけ早く議論を進めるということについて合意した」というだけで、結局なにも進んでいないとしか思えません。

 日本側は言葉の綾だけ振り回して実のある会談といっても、相手は相手で「領土問題は論議されなかった」といって帰国できる内容です。いくら自分に都合良く解釈しても、海外との折衝はなあなあでは通じないのです。

 大事な時期に役職ある政治家が女性を連れて国費支給の切符でゴルフに行く天下太平の国です。言葉遣いなんか些細な問題と考えている政治家が多いのかもしれません。それが天下を揺るがす恐れがあるとも知らないで。

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(824)開発者の目

 今では技術開発に携わる女性も多くなりました。それがついこの前までは新製品は男性が開発するものというような感があったのです。せいぜい女性が研究者にいたのは化粧品会社ぐらいでしょうか。

 化粧品会社でも戦前から女性研究者がいたのかどうかは知りません。私の勤めていた会社で仕事を手伝ってくれていた女子学生アルバイトは、大手自動車会社の研究所に採用されました。家庭用の車に各社が目をつけていた頃です。

 電気釜、電気洗濯機、電気掃除機などたくさんの電化製品が主婦の仕事を助けています。これらの製品を開発した人は奥さん思いだったことでしょう。毎日が日曜日になった私としても、たまに家内の仕事を手伝ってみますが、気づいたのはこれらの電化製品が使う人の立場に立っているかという疑問です。

 確かにしゃれたデザイン、機能の良さはキャッチフレーズ通りです。ところが電気釜についているしゃもじ立て。付属品だからといえばそれまで。でもせっかくつけてくれるならもっと使いよい場所に。

 位置を動かすにもせいぜい右か左と左利きの人への配慮ぐらい。前後には釜の構造上なのか動かせないのが大半。仕方なく釜の横など自由につけられる市販のしゃもじ立てを買って使っていますが、これがまた温度差によってすぐはがれてしまう代物。

 掃除機のコードは床を引きずりゴミを撒いてしまう。誰が設計したのかと腹立たしくなりますが、これも使ってみないと欠点がわからないのが悩みの種。

 家庭内で使われる品物は女性が使うものと決めてかかれない世の中ですが、使う人の立場で設計しているのか、結局技術開発は男の仕事と考えていた時代の産物と考えたくなってしまいます。

 別に女性というわけでないにしても、使う人の立場を理解できる人が設計し、実際にできあがった品物を使い込んで改良を加えて欲しいものと感じます。

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(823)伝染病

 昔よく聞いた言葉に伝染病というのがありました。人から人に移る恐れがある病気は医学の発達していない時代に多くあったものです。

 中には誤解から生じた伝染病があり、そういう病名をつけられた患者はいわれのない中傷などもあり、気の毒な生活を送らざるを得なかったと聞きます。

 それにしても地球上から絶滅したという天然痘など恐ろしい病気があり、患者を隔離するという措置は決して間違いでもなかったような気がします。

 ここ数日ニュースのトップに躍り出た新型インフルエンザも大騒ぎしすぎという感は免れませんが、真因が究明されていない現段階では警戒しすぎてしすぎることはありません。

 ただここで感じるのは、検査のためホテルに10日間缶詰にされる人の精神状況が気になります。電話は別として人との接触を断たれ、食事も一人ポツンと食べざるを得ない状況は考えるだけでも背筋が冷たくなります。

 昔東大病院に入院した友人を見舞ったとき、隔離病棟に入っていると聞いて恐れを感じたことがあります。ほかに病室がなく隔離病棟に入れられたそうです。

 すでに伝染病の殆どが隔離する必要がなく、隔離病棟という名が残っていただけのことというのですが、そんな名が残っているだけでも昔人間の私はやはり一歩退いてしまいます。

 それにしても医学の進歩はものすごいと思います。どこに病気の原因があるかがわかれば対象措置がとれるようになっています。従って伝染する前にそれを押さえてしまいます。

 今回のインフルエンザ騒ぎで久しぶりに隔離措置という言葉が復活したような気がします。もちろん現在もそういう措置を執る病があるのでしょうが、なにがそういう必要性のあるものかすぐに思い出せません。

 昔の結核病院も今は聞きません。不治の病でなくなったからでしょう。不治の病といわれたがんでさえ早期発見で殆どのがんは措置できるようになっていうそうです。

 残された人生は今まで生きてきた時間より遙かに短くなっていると思いますが、出来るだけその時間を大切にしたいと考えるこの頃です。

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(822)本場の味

 東京には世界の食べ物が集まっています。お金さえあれば何でも食べられるところはよいのですが、味がどうも違う。味が違っても北京料理とか何とかいって良いものか。

 そういう私が世界の味について知っているわけでありません。そもそも私は味音痴のようなもの。どこそこの食べ物といわれれば旨いといって食べてしまう方です。

 その私でも東京のうどんには驚きました。醤油で煮染めたようなうどん。そんなうどんをおかわりまで頼む人がいました。

 うどんといえばおすましに近いようなたれに浸したものと考えていました。それと関係あるのか、東京に薄口醤油がありません。もちろんそれは過去の話で今はスーパーの棚に置かれています。

 品物はあるのですが、選ぶほどの品はありません。1リットル入りというのも関西系のスーパーにありますが、関東系のスーパーで置いてあるところは非常に少ないのです。

 神戸元町にあったたこ焼き屋が支店を渋谷に設けたことがあります。2年あまりで閉店しました。当時の東京人に受けなかったのです。私たち関西人は時々足を運んだのですが。

 薄味のたれに綿のように柔らかいたこ焼きを浸して食べるのは、関東人に馴染まなかったようです。時代が早すぎたのでしょう。

 最近は関西風うどん、讃岐うどんや明石焼きの店があちこちにあります。東京に暮らす関西人が増えたのか、関東人が関西風の味に慣れてきたのか。

 現役時代に長崎から来た人と銀座にある長崎料理屋でチャンポンを食べました。長崎で有名な店の支店です。彼はこれは長崎の味と違うと顔をしかめています。

 店の言い分でははじめ本場の味で商いをしたが、東京人の舌に合わないと見て味付けを少し濃く変えてしまったということです。本場の味を知らない私はそれが長崎の味と信じ切っていました。

 こういう東京で世界の味を味わってみても果たしてそれが本来、その土地に根付いた味なのかと疑うようになってしまいました。

 神戸に数ある中華料理店、オーナーシェフは永年神戸に住みついています。若いコックを地元から呼び寄せたりしていますが、どうしても神戸で作られた中華料理という気がします。

 やはり本場のものは現地で味わうのが間違いないのかもしれません。

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(821)ラジオアナとテレビアナ

 アナウンサーについても過去何度か取り上げました。

 たまたま先日NHKラジオの「ラジオ特集」をなんとなく聞いていました。TBSラジオで名を売った大沢悠里、ニッポン放送出身の亀渕昭信氏らが登場、ラジオの持つ想像力について話していました。

 1日中ぶっ通しの番組ですからすべて聞いていません。ゲストもたまたま聞いている時間帯に出た人だけですから、ラジオをメインにしている永六輔が出演したかどうかわかりません。

 たしか永六輔も現実を見せてしまうテレビに愛着を持てないというような趣旨の発言をしていた記憶があります。受験勉強をラジオを聞きながらやっていた私です。夜遅く静まりかえった山中の部屋は、ラジオでも聞いていないと怖くなってしまうのです。

 周囲からよく、ラジオを聞きながら勉強できるわけがないとスイッチを切られました。想像力をかき立ててくれるのはなんといっても活字です。ラジオはまだ、声という現実のものが存在しますが、活字は声も絵もありません。

 活字から描かれる世界はすべて自分の頭が作った世界です。だからこそ同じ題材を取り上げた複数の映画が、それぞれ違った作品として評価されるのです。監督の解釈がそれぞれに違うからです。

 活字とは違いますが、声だけで聴取者の頭に映像を描かせる話術、素晴らしいと思います。かつては徳川夢声の話術に堪能させられました。

 ラジオのアナウンサーも声が命です。台本がなくても話さねばなりません。テレビでしばらく声のない時間があっても、絵が映っていますから視聴者側では気にしません。ラジオでしばらく声が出ないとラジオの故障かと思ってしまいます。

 ラジオやテレビのアナウンサーに司会の仕事を頼んだことがあります。私自身は放送人でないため放送界のルールをよく知りません。打ち合わせも新聞サイドで進めてしまいます。

 ラジオアナは番組の構成、進行の概略だけで要点をつかんでくれました。しかも出演者がトラブルで延着した時間帯もしっかり締めてくれました。

 テレビアナの場合は細かく書いた進行表を要求してきました。四角四面なものでなくこういう感じで進めてもらえばよいといっても納得しません。相手の方が強かったのか、結局徹夜で進行表なるものを書いた覚えがあります。

 幸いハプニングが起きませんでしたが、もしそういうことがあればどういう風に対処したでしょう。テレビはいつもその現場が写されているところから、きちっとした演出が必要なのだと思います。アバウトがよいと言えませんが、とっさの時の反応はアバウトの方が対応しやすいのではと考えてしまいますが、これも素人考えかもしれません。

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(820)田舎の思い出

 「田舎」という言葉。いつ聞いても良い感じがします。それを地方を差別していると感じるのは、その人の感じ方がおかしいと思います。

 ただ私が感じている田舎と現在の田舎のイメージが異なってきたのは間違いありません。一昔前との比較論ですが、どういう地方でも道路が良くなり、舗装された道を自動車が走り回ります。

 「動物に注意」という標識のある高速道路が地方都市を結んでいます。田圃のあぜ道を折り紙で造った風車を回しながら歩く子どもの姿は少なくなりました。

 父の実家は農家です。夏休みに行くと井戸からよく冷えたスイカを引き上げ食べさせてくれました。稲の育った田圃に出ると畦にはトウモロコシが熟れています。サトウキビも植わっていました。

 白い綿の花や里芋なども。共同墓地のある山の斜面には蕎麦も。生育条件の合う作物は何でも作っていました。それを見ていろんな植物の名を覚えたものです。

 一旦外に出なければならない便所と鉄板で出来た五右衛門風呂はいやでしたが。父が亡くなれば訪ねる機会も減り、泊まることもありません。子ども達は農家の一日を知る機会がありませんでした。可哀想ですがそれもやむを得ません。時代そのものが変わってきたのですから。

 母の実家は山国。田畑は作れません。それでも戦時中は木を切りわずかな隙間を作って甘藷、馬鈴薯や大根などを。それも戦いが終われば元の山林に戻りました。蝉は相変わらずやかましく鳴いています。

 それでも昔、家の中にまで飛び込んできた玉虫やカブトムシなどの姿は見られなくなったそうです。サッシ窓が取り付けられエアコンが働くようになれば虫も飛び込めなくなっています。

 地方都市というように大都市に隣接した地方から、かつての田舎が姿を消すのも時の流れというものでしょう。
 
 天神さんのお祭りと露天は切り離せないものでした。お詣りより露店でなにかを買ってもらうのを楽しみに出かけたものでした。だから翌朝参道にあった露天のテントがすべてなくなっているのを見て、寂しさをぬぐいきれない思いもしました。

 まだまだ昔の田舎の面影を残しているところがあると思います。しかしそこにもう祭りを支える若者はいなくて、力のないお年寄りだけの世界になっているのが現実。

 定年後の生活をそういうところで送ろうという人が現れたといいますが、そういう人でも慣れない土地で祭りを支える力はどうでしょう。

 都市化されることに異議を唱える気はありません。年寄りだけの田舎より、みんなが豊かな生活を送ることが出来るなら、いつまでも懐古主義を唱えていても仕方ありません。

 そんな社会が早くできるのを期待したいと考えます。

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(819)お茶にも入場券?

 高尾山あたりでも山頂で飲み物の自販機を見ると山麓で売っている値段よりいくらか高くなっています。富士山でも7合目あたりだとかなりの値がプラスされています。それでも乾きに勝てず買ってしまいます。

 自分たちも汗を流して登った山です。その私たちのために重い商品をここまで運び上げてくれたのです。運び賃が入っているのだからと納得してその品を買います。

 会社の中の自販機は逆に町中より安くなっている場合があります。普通社内に設置するのに販売会社はいくらかの手数料をバックしています。その分設置を認めた会社が還元し社員の負担を軽くしています。

 昨日都心の大劇場に行きました。幕間にのどを潤すべく自販機の前に立って驚きました。120円の飲料が200円均一です。それでもたまの劇場見物だからと大盤振る舞い。

 場内は喫煙コーナーがないため半券を手にして場外に。なんと切符売り場の横に自販機があり120円。ああー。

 結局私は飲み物の入場券も負担したのでした。

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(818)映画のパンフレット

 映画館は上映中の映画紹介パンフレットを置いています。たいてい有料です。
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 子どもの頃は映画館に入れば、もぎりのところで上映映画を紹介したチラシを呉れました。次回上映予定の作品紹介があったかもしれません。もちろん無料です。
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 学生時代にはきれいな天然色写真を入れたパンフレットも売店に置くようになりました。有料ですがそれと別に今まで通り無料の案内チラシも入場の際にもらったように思います。

 今では入口でくれるものはなく、たまに配ってもタイアップスポンサーの宣伝用チラシぐらいです。上映作品については有料のパンフレットを購入しなければなりません。

 有料パンフレットは作品内容にもよりますが、おおかたは作品の製作意図、梗概、キャストとスタッフ紹介などパターン化されています。シリーズものはそのシリーズ全体の紹介がありますが、わざわざ出費を伴って手に入れたいというものではありません。
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そのためか売店付近で見ていても映画のパンフレットを買う人はごく少数です。歌舞伎などとは違います。

 私の手元にあるパンフレットは試写会場でもらったものばかりです。さすがに広報を目的とした試写会ではパンフレットを配ります。

 その中で目を引くものを並べると写真のようなものがありました。いずれも古い作品ばかりというのは、定年後試写会に招かれることがなくなり、パンフが手に入らなくなったからです。


 深作欽二監督の「上海バンスキング」に流れたジャズは、私が生まれる前のよき時代を感じさせてくれました。ジャズと言えば宮本信子がジャズシンガーとしてコンサートを開いているのは知りませんでした。

 伊丹十三監督は「お葬式」以後「マルサの女」「あげまん」「ミンボーの女」「スーパーの女」等、宮本信子の主演映画を多く手がけていました。夫婦共作ですが女優と一緒になった大勢の監督の中でも、この人ほど自分の作品に女房を使った監督はほかにあまりいないでしょう。
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 俗に徳間映画と言った徳間康快氏のプロデュース作品は、中国ロケを決行した「敦煌」、ソ連での長期ロケを実現した「おろしや国酔夢譚」など大仕掛けな映画作りを得意にしていました。

 現役時代も彼と直接話せる場面がありませんでしたが、噂に聞く大風呂敷を広げるという氏の面目躍如たるものがあります。

 単なるパンフレットと言いながらも改めて見直してみると、それぞれに制作者の思いが詰まっている気がします。

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(817)危険球とヘボ野球

 新型インフルエンザの対策に政府は大忙し。でも安全に関わることはどれだけガードを強めても強すぎることはありません。

 最近の野球はアマのみならずプロでも体をガードする用具を身につけるようになりました。確かにキャッチャーがつけるマスクは昔からありましたが、顔を覆う金属棒が折れるような事故もあったそうです。粗雑な作りだったのでしょう。

 球審やキャッチャーのプロテクターは我々世代でもお馴染みのものでした。それにしても最近の野球中継を見ていると肘当て、すね当て、ヘルメット……。さぞかし重いことだろうと思います。

 かなり体力のあるものしか野球が出来ないような。それに比べれば戦後の野球道具が満足にない時代の野球はどんなものだったのでしょう。

 戦後進駐軍の占領政策からか、野球はいち早く復活したスポーツです。中学野球、大学野球、職業野球と硬式野球が続々開催されるようになりました。しかし家が焼かれ疎開地から戻れない人の多い頃です。球場まで見に行くのは大変なことです。

 私たちは布を丸めて作ったボールやテニスボールを使ってヘボ野球を始めました。テニスボールも本格的なものでなくゴムまりといった代物です。棒きれのバットを当てるとすぐパンクしてしまいます。布を丸めたボールの方が割れなくて好まれました。ただし当たっても飛びません。

 小学校時代から中学時代にかけての友人がどうしたか、気になる人がいます。

 疎開地で三角ベースをして遊んでいました。私がバッター、彼がキャッチャーをしていました。

 ピッチャーの投げたボールに向かいバットを振ったところキャッチャーが倒れました。私のバットが彼の頭に当たったのです。まともなバットもなく、棒きれの角を削って丸くしたバットですが、頭に大きなこぶを作っています。

 呆然として立ち尽くす私。彼の体を気遣っているのですが返事がありません。一緒に遊んでいた別の友人が一番近かった私の家に連絡し、彼を運び込んで医者に往診を依頼。

 そういう時代のヘボ野球、野球道具さえ満足なものでありませんから防具なんて身につけていません。結局脳震盪ということでしばらくして意識を取り戻した彼は迎えに来た親の背に負われ帰宅しましたが、数日学校を休んでいました。

 彼の父親は町長をしていたのであだ名は「町長さん」。その後全く彼の消息を聞かなくなりました。

 それにしても球場の塀にはマットのような柔らかい素材を貼り付けたり、アメリカンフットボールほどではないにしてもいろんな防具を身につけたり。本来の動きも鈍くなりそうですが、怪我をしてからでは遅すぎます。

 昨日のプロ野球でも打者の頭にボールを当て、危険球退場を命じられた投手がいました。意識して当てたのでないと思いますが、ヘルメットをつけていても倒れてしまう勢いがあるのですから、危険なことに変わりありません。

 といってそれが理由で投手が萎縮してしまうのも困ります。

 小さい子ども達はゴムまりに柔らかい素材で出来たバットをもって遊んでいますが、安全を追求すればこれが正しい野球ということになるのでしょうか。

 スポーツと危険は切り離せない関係にあると感じます。

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