裁判員制度が始まったというのに冤罪というのが最近よく報じられます。
前から感じていたことなのですが裁判官も人の身、自分なりの考えもあるでしょう。思想も持っていると思います。
最近の判決の大半は判例を元にして個々の訴訟に対応して行くようですが、それなら判例の最初になる判決はどういう基準で示されたものか。一応たくさんの法律条文を組み立てて判決文を作るのだと思いますが、法科を出ていない私にその詳細はわかりません。
問題は原告側、あるいは検事側があり、被告側と対峙します。判事、検事、弁護人それぞれが、その日の感情を抑えながら裁判に臨んでいると考えますが、神ならぬ人間の身ではどうしても今朝あった喧嘩なり、気分の良し悪しが残っていると思います。
そうした気分が判決に直接反映するとは考えられませんが、全く無関係とも言い切れないような気がします。
法律の専門家でない一般人が裁判員に指名され、免れることが出来ずうんざりした気持ちで出廷したとき、どういう判定をするのか心配です。
滅多に見られない再審で逆転無罪判決を勝ち取るケースが往々にしてあります。ある刑事事件があったと言うことは疑いようのない事実ですが、逮捕された容疑者が必ずしも犯人でないところに悲劇があります。
足利事件と言われる冤罪事件にしても事件発生とどこかに真犯人がいるのは間違いないのですが、たまたま時のDNA鑑定の誤判定が元で無期懲役服役中だった容疑者。やっと再審が認められ無罪判決を得るところまで来ましたが、彼を犯人と信じるあまり警察側は真犯人を取り逃がしているのです。
私はこういう場合どうも合点が行かないのです。一人の容疑者を拘束すればもう捜査本部は解散し、他の視点から見たとき捜査線上にのぼった人は追わないのか。
殺人など凶悪犯罪の場合の冤罪は怖いと思いますが、あまり大きくして欲しくないとみんなが口をつぐんでしまう電車内などの痴漢事件。庶民の誰もがはまりそうな事件です。
私自身も通勤時代に経験していますが、あの満員電車内で若い女性のそばに寄るのも離れるのも思うようにならない中で、触った、触らないなんて争うのも至難の業だと思います。要するに動きが取れない世界です。
あの頃は振動で手があたったとしても通常「ごめん」の一言で済んでいました。意識して手があたったりしたわけでないのですから。最近の記事を見ていると衣類の中に手をというような書き方になっていますから、以前より車内の余裕が出来たのでしょうか。
せっかく設けられた「女性専用車」に乗る女性客が少なく、わざわざ混んでいる車両に女性も乗り込んでくる時代でした。結局当時の女性専用車は廃止になりました。
今は女性が痴漢容疑者の腕を捕まえて事務所に連れてくると言うことです。このこと事態は女性の行為に尊敬の念を持ちます。しかし気になるのはそれが本当に当事者かどうかと言うことです。
後日談を聞いていると公判に持ち込むと女性も顔が外に出る、男性は会社で働けなくなるなどの理由をつけて示談にするケースが多いそうです。金銭で解決しようというのです。
犯人に擬せられた男性が「絶対やっていない」と言い張っても、取調官は「いくら強がっても反証がないのだからおとなしく罪を認めろ」と矛を収めるよう説得するという話もあります。
微罪だと言えばそうかもしれませんが、その結果仕事を奪われるケースが多くあるそうです。人の一生を左右する場合だってあるのです。しかも無実の罪で。
実際に争って無罪を獲得する人は少なくないそうです。被害者側が小遣いほしさにそんな芝居をやると聞けば冤罪被害者がどれぐらいいるのか。さすがに最近は痴漢容疑に対して慎重に調べるよう通達がでたとのことですが、当然のことです。
我々でもいつ疑われるかと思えば混んでいる電車には乗らない、どうしてもと言う場合は両手でつり革にぶら下がるようにしています。
冤罪判決が出たときには国から補償金、賠償金のようなものが支払われるそうですが、これも合点の行かない一つ。
疑われた人は収監中の時間を返して欲しいという願いがあるでしょう。足利事件では年金問題にまで派生しているようです。それは当然です。
ただその資金を税金で払うのはいかがなものかと考えます。誤判をした検事団、判事団が私費で支払うのが本来ではないのですか。
そこまで厳しくすれば裁判員になり手がいなくなってしまいます。それも困りますが、少なくともこういう考えを根に持っていれば、冤罪事件もいくらか解消するかもしれません。
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