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2017年12月

(2557)介護日誌 13

 年が変わった今年の正月、どうしても運動主体のデイサービスは行きたくないというので、ケアマネと相談の上従来から行っているデイサービスの1日コースを追加することにした。朝9時頃迎えの車が来るので本人の頭がまだしっかりしていないからなのか、とりあえず送迎バスに乗り込んでくれる。

 一方、自分たち好き者同士で組織したカラオケサークルは休みがち。できる限り私も時間を作り、会場に連れて行くようにした。先生も気の良い方で介護の資格もあるとか。気配りをしてくれる。

 ところが2月、デイサービスの担当者から家内が発熱したのですぐ送り届けると連絡があり、救急車を手配して救急病院に。結果はインフルエンザに罹患しているとのこと。治療を受けあとはかかりつけ医でフォローして貰うことに。

 ところが今度は私に伝染したのか同じウイルスに襲われ私のかかりつけ医に通うことになった。どちらも1週間ほどの投薬で完治した。

 本人は私の頭が壊れたみたいと再三口にするようになった。異常に気がついているのだろう。

 夏頃から入浴も自分でうまく洗えなくなり、手助けが必要になった。排泄についても同じこと。よく見ていないと失敗してしまう。娘が時々手伝いに来てくれるので助かる。私自身の趣味、月2回の陶芸や旧友との飲み会にも安心して出かけられるようになり一息つけた今年だった。

(2556)オブラートとラミネート

 顆粒や粉末の薬を飲みにくそうにする妻。最近はいつも袋の中に半分以上残ります。一度では駄目なので数回に分けて飲ませますが、それでも口から相当量をこぼしてしまいます。

 私の小さい頃は医者に診てもらうとそこで薬を調合してくれました。見ていると分銅がついたはかりで薬の量を量りながら調合してくれました。子供だと飲みにくいだろうとオブラートに包んでくれたり。

 ケアマネ達はヨーグルトに入れて食べさせると良いとか、白湯に溶かせて飲ませればと看護師の助言。いずれも試したところヨーグルトが一番。カルピスに入れてもOK。甘いと飲みやすいようでした。

 ところでオブラートを最近見ないのでネットで検索すると今でも売られているようでした。送料のほうがかかりそうなのでドラッグストアならと買いに出て、途中で調剤薬局のほうが近いからとそちらに。今日は祝日で医院が休み、従って隣接した薬局も休み。そのことを毎日が日曜の私はすっかり忘れていました。

 仕方なく自転車で15分ばかり走ったところにある一番近いドラッグストアに。店頭にそれらしいものが見当たらず係の人に聞いてみようと声をかけてアレッ。オブラートという品名がすっかり頭の外に。

 いつもど忘れの時にやってみる50音順で品名のヒントを。アからヲまで。もちろん濁点、半濁点のものまで含めてもヒントが引っかかりません。繰り返すうちにア、カ行ではない、ナ行からあとと先入観が走ります。そこで引っかかったのがラミネート。

 同じフィルム状のものだが目的の品はラミネートでないことはすぐわかります。考えれば考えるほどぬかるみにはまったように、近い用語が出ても目的の言葉が見つかりません。

 こうなればいくら考えても無理。妻に電話をしても恐らく話が通じないと今日は買うのを諦めました。帰ってメモった白板を見直し何のことはない、オブラートだったのかとやっと思い出す始末。

 私の記憶力、衰えが来ているのは感じていましたがここまで進んでいるとは。これからはできるだけメモをするように心がけたいという気になったのですが、どこまで実行できるかが問題です。

(2555)介護日誌 12

 「一進一退」というが妻の病気に対しては今のところ治療法が確立していないので手の打ちようがない。ただ見守るだけというのは介護者にとって非常につらいこと。もちろん本人はなおさらのことだと思うが。

 最近近所で同じような立場の家庭で不幸があった。主人が奥さんを見守っていたのに、介護する方が先に逝き、訪問ヘルパーが訪れるまで気がつかなかったという。わりに元気そうに犬の運動を付き合っていたのを最近も見かけていたのに。

 しかしこういう病に冒されると私自身の健康管理が行き届かない。ヘルニアを指摘され手術という話になったが結局医師と相談して現状では見送る方法もあるというので従うことにした。

 妻と毎年行っていた旅行もこの状況では今後は無理だろう。16年10月、風呂に入ろうと行っても今日は家に帰ると外に出てしまった。連れ返すため外に出ると鍵がかかった自分の自転車を引きずって歩いている。腕を掴むと「何故自由にさせない」と怒りだし、大声で通行人に助けを呼ぶ様。

 キッチンの生ゴミがいつの間にかなくなっていたので、こういう処理ができるのかと気にしないでいたが、翌日冷蔵庫を見ると中に仕舞ってあった。主治医とも相談し、薬の調合を軽重いろいろ試してくれるのだが、なかなかいい方向に向かないもの。

 昨年の冬、珍しく雪が降り出したのを見て深夜の2時というのに突然パジャマにセーターを着込んで外に出た。慌ててついて出ると庭の雪かきをしなければと頑張る。なんとか言い含めて中に引き戻すということもあった。

 この頃から脳神経外科の看護師に「最初に会ったときに比べてずいぶんやつれたようだが健康に気をつけるよう」助言を受けた。

(2554)上を向いて歩こう

 新聞の政治欄を見ているとつい最近、選挙民に選ばれたはずなのにすぐ次の選挙を睨んだ行動ばかりしているように見えます。選んだ人との公約はどうなったのでしょう。公約の実行より次の選挙に勝てるかどうかが気になるのかな。

 さすがに国を代表するような方にそういう姿勢は見られませんが、そういう立場の人に選ばれたと考えているのか、選挙時に向けていた顔の向きがいざ臨戦となると方向違い?上を向いて歩こうという歌の解釈を間違っているような気がしてならないのですが。

(2553)祖父の教え方

 祖父、別けても共に暮らす期間が長かった母方の祖父、怖かったけど今思い出せばやはり私の身についていました。祖母のように細かくはないけどそれはそれで私の生涯に影響を与えています。

 特に思い出すのは灸、酒、たばこ。なんとなく鬱陶しくて祖父母の部屋にはあまり行かないようにしていましたが、時々呼び出されます。部屋に入ると甘いものを食べているか、酒、たばこをたしなんでいる姿、さらに灸をすえているところもよく見ました。

 お灸を据えているのを見ていると「悪さをするとおまえにもすえてやるから」。あんな熱いものを背中で転がされたらたまりません。すぐ逃げ出しました。祖父自身が熱い熱いと悲鳴を上げているのですから。それなのに自分でモグサをおいて火をつけているのです。

 肌が厚くなったのか、キセルたばこを吸えばたばこの葉を詰め替えるまで、今まで吸っていたたばこの火を手のひらで転がせながら、新しく詰めたたばこに火を移していました。まさか灸の熱さで皮膚が不感になったわけではないでしょうが。

 たばこや酒をおいしそうにやるので物欲しそうな顔をしていたのでしょうか。「おまえもやるか」とたばこを吸わせます。吸い方がわからない私は祖父のまねをして煙を飲み込みむせてしまいました。それ以来たばこは吸わないと思ったものです。あんなまずいものを。

 だから学生時代、二十歳になって学友たちが吸っているのを見ても全く触手が動かなかったのです。祖父にすれば反面教師という考えだったのかも知れません。

 酒も祖父にすればたばこと同じように二度と飲みたいと思わないようにするつもりだったのか、少し飲んでみるかと盃に少しばかりついで私に。量が少ないためかグッとのどを通ってしまいました。物足りません。甘くてうまかったと覚えています。

 お代わりといって叱られました。むせて飲みたくなくなると考えたのでしょうか。思惑が外れたようです。

 今、どちらもやりながらその頃のことを思い出してしまいます。

(2552)喫煙と子供の所持品

 喫煙者に対する風当たりが厳しくなってきましたが、未だに1日5本程度をたしなむ私はあまり気にしていません。先日の検査結果が出れば手術が必要になるかもしれない身で、もし入院ということになれば当然たばこは吸えないでしょう。

 1日1箱吸っていたのにここまで減らせたのです。東日本大震災の頃は禁煙も成功していました。退社後白内障手術で入院したときもたばこをやめています。

 そもそも私がたばこを吸い出したのは就職後半年ほどしてから。配属された職場の男性はほとんどが愛煙家。仕事の段取りを教えてくれた先輩も喫茶店でコーヒーとたばこを離しません。コーヒーを早々と飲み干した私は手持ちぶさた。つい先輩からたばこをもらって。いつももらってばかりというわけにもゆかず自分で買うようになったのです。

 終戦前後の時だったと思いますが、疎開先で学校の悪友と木に巻き付いていた山吹の枯れ枝を切り取り、火をつけて吸えば煙が出てたばこを吸っている気分。そんな遊びをしたこともありました。そのうち先生に知れてたばこを吸う格好の遊びは禁止。喫煙のまねごともさることながら、山火事の恐れが伴っていたからという記憶が。

 このように思い出してみると、マッチやナイフを持っていたことは注意の対象でなかったように思います。時々不意打ちで所持品検査があり、子供にふさわしくないものは没収されました。しかしナイフは鉛筆を削るために必要として認められていました。時代によって子供に許容される所持品も変化してきています。

(2551) 介護日誌 11

 15年1月、家内に付き添ってもらって府中試験場で免許証返上手続きをした。その間近くに付き添わせるようにしたが、トイレで離れたときもおとなしく待機。しかしこの頃から夜になると自分の家に帰ると外に出るようになった。

 医師は無理に手を引っ張らず後ろからついて行き、気持ちが収まった頃言い聞かせるようにと注意を受けたが、足が速くなかなか追いつかない。

 気持ちを落ち着かせるためと新しく漢方薬を調合。15年春に介護認定を受け7月から週1回のデーサービスを昼間。1日とはいえ、自分の時間が持てるようになった。

 同年の秋、神戸で元の会社仲間の集まりがあり、ショートステイを依頼したが、適当なところがなく日帰り。その間近くに住む娘が会社を休み面倒を見てくれた。

 16年になると起床時間が遅くなり、朝、昼兼用食が多くなる。体重は夫婦そろって減少。私自身は60キロ維持の体が今年は49キロに。家内も似たようなもので30キロ台。

 これまで一応献立を考えて作っていた食事、全く考えられないようになり料理不得手の私が手を出さざるを得なくなる。レシピをネット検索したり、料理テキストを購入して作ってみるが書いてある通りにしか作れないので、材料不足で途中でやめたりも。

 主治医は私の報告を聞きながら薬の濃度を調整してくれるのだが、治らないという現実はいかんともしがたい。疲れがひどく自分も時々転倒して皿を割ってしまう。

(2550)途切れる寸前


 命が絶える寸前、突然元気なところを見せることがあると小さな頃から聞かされてきましたが、人の命だけでなく機械なんかでもそうした瞬間をよく見かけます。今はほとんど見なくなった白熱電球もそうでしたが、蛍光灯もそうした瞬間があります。

 モノをできるだけ長く使うよう、注意しているせいか電化製品はもちろん、食器類もなかなか新しいモノに変わりません。物置に置きっ放しの方がそれらのモノに不遇な目を味わせていることになりますが、使用できるモノを捨てるわけにもゆかず。

 ところがこのほどトイレがいうことを聞かず「流す」ボタンをリモコン操作して水が素直に流れません。1,2ヶ月様子を見ていましたがついに更新することにしました。

 ところがどうでしょう。更新工事をする2日前から思ったように働いてくれます。自分の末期を悟ったのでしょうか。とはいえ実際に解体作業を始めた作業員の手元を見るとこれは単なるトイレ用品でなく、電子機器の一種というのがよくわかります。

 こんなところにも配線がほどこされているのかと感心して見とれていました。やはりこうしたモノはある年数で取り替えた方が、利用者だけでなく機械にも負担をかけないのではと考えさせられる一日でした。

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