(952)ニックネーム

 ニックネームは親しみを持ってつけることが多いように思います。一方あだ名はあまり好感情を持たれない人に。

 中学での英語教師。「坊ちゃん」というあだ名は入学してすぐに先輩から教わりました。漱石の「坊ちゃん」に登場する主人公も英語教師ですが、それとどう関係があったかは教えてもらっていません。

 イメージとしては全く違うように思えました。でも愛すべき人柄というか、親しみの持てる人でした。

 それにしてもあだ名は、よくぞ名付けたなあと感心させられるほど、それぞれその人柄を象徴しています。

 大体愛される人か憎まれている人か、とにかくみんなから注目される人にニックネームやあだ名がつけられ、関心の集まらない人はそうしたものがつけられないような気がします。

 ということはそうした名を貰うことはよいことなのか、それとも。

 ただし一つ間違うと殺傷事件にも発展することがあり、いじめの対象にもなっているようで、たかが渾名とは言っておれません。

 とにかく人間関係を作るのに役立つようでありながら、思惑と違う結果になることがあると知ると、恐ろしくもあります。

 世の中、気をつけねばならないことが多すぎます。

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(951)歌詞がはっきりしない歌い手

 ラジオで歌を聴いていると、歌詞がはっきり聴けない歌手が多くなりました。

 テレビだとテロップで歌詞が表示されます。それでどういう歌詞かわかりますが、全てを耳に託すラジオではそれがわからないのです。

 以前の歌手は歌詞を明瞭に歌っていました。東海林太郎、藤山一郎、淡谷のり子などかつての歌手はみんな詩を正しく聴衆に聞かせました。今でも八代亜紀、加藤登紀子などなど、耳で聞いていて歌詞をはっきり歌う歌手が多くいます。

 しかし最近はマスクのよい人がテレビに登場するようになり、歌の巧拙は二の次になっているように感じます。

 せっかく作詞家が心を込めて作り、作曲家が肉付けをした曲です。それを聴衆に正しく届けるのが歌手のつとめではないでしょうか。

 とにかく動きが激しく、ステージ狭しと暴れ回りながら歌う態度、これは見せるショーで聞かせるショーではありません。

 先日八代亜紀がどこかの新聞で語っていました。「歌詞を正しく聴いてもらうよう努力している」と。

 「涙そうそう」は森山良子が作詞、自分でも歌っていますが、夏川りみも歌っています。沖縄の言葉が入っているため意味がわかりにくいところがありますが、いずれも歌詞ははっきり聴き取れます。

 気がつけばこういう歌詞を明瞭に歌う人はみんな口を大きく開け、言葉を大切にしています。芸大出身とか民謡出身の歌手なんかは、それなりに基礎ができているからだと思います。。

 確かに節回しなんかはうまいんだろうと思う歌手もいますが、肝心の歌詞が聞き取れないのではどうしようもありません。シンガーソングライターという全てを一人でこなす歌手も少なくありませんが、自分の思いが人にそのまま伝わらないのは悲しいことです。

 テロップの出るテレビなら別ですが、ラジオの聞き手や生ステージを見る客にとって、歌詞がわからねばただの騒音みたいなもの。

 テレビドラマでもセリフがはっきり聞き取れないタレントが現れています。その点舞台に出る役者は発声が全く違います。

 一般会社でも自分の意見をはっきり言えない新入社員が増えたということですが、芸能界もそういう人が増えているのでしょうか。

 基礎を固めることが必要、今の日本に突きつけられている課題でもあるような気がします。 

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(950)境界線

 戦争中のこと。赤道の下で日本軍が戦っていると教えられ、赤道の下に一度は行ってみたいと考えるのも子どもの頭です。

 赤道という線が海だか空だかのどこかにあり、そこを通るときにはなにか合図のようなものがあるのだろうと。

 そういえば船で赤道下を通過する際には「赤道祭」を行うという話も聞いたことがあります。

 自分の経験はオーストラリアへの往復、それも航空機でしたからいつその下を通ったのか。

 赤道はもちろんのこと、どこにも境界線がありますがその殆どは地図上のもの。地上にそんな線が引かれているわけではありません。それにもかかわらず境界線の果たす役割は大きいと感じます。

 今朝のニュースによれば、北朝鮮が境界線付近に立ち入るものは警告無しに攻撃すると宣言したそうです。はっきり国境線が表示されていればよいのですが、それがはっきりしていない。それが気になります。

 日本の場合、周囲を海に囲まれているだけに余計国境線がはっきりしません。それでも一昔前は、海に囲まれていれば外国からも攻撃しにくい安全な国と学校で教わったものでした。

 明治前の開国云々という時代なら確かにそうだったかもしれませんが、今は空からの攻撃があります。ミサイルのように人が乗らないものが飛んでくれば、防衛線をどこに置くかは重要な問題です。

 現実的な問題はともかく、かつてドイツを東西に分断した壁のように仕切りを作ることが可能な陸上の方が境界をはっきりさせられます。

 現に都市部の家と家の境界が通常塀や生け垣で区分されています。もっとも土地を広く所有する地方の山村では境界がはっきりしないところもたくさんありますが。

 富士山頂の県境は未だに曖昧になっています。税金を静岡に払うのか山梨か。最近のように住宅地が広がると、県境にまたがって建てた建築物に対して両方の県が税をどうするかで物議を醸すというニュースもありました。

 男女の境目や物事のけじめがわかりにくくなってきた昨今ですが、国や行政の区分、税収などの問題が絡むと複雑になり、境界を明確にする必要があるような、あるいは世界は一つとばかりに境界を取っ払う方がよいのか、世の中複雑な問題を抱え込むと頭の痛いことがいろいろ生じるものだと感じます。

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(949)旅行前に病気になる

 旅に出るというとかならず調子を崩す人がいます。精神的なものがあると考えられますが、本人にすればどういう気持ちになるものでしょうか。

 なにか普段と違う行動をとるときに体調を壊したのが息子でした。家族旅行を計画しても土壇場でキャンセルしたことが数回ありました。

 出発前日になると気分が優れない様子、当日は治るだろうと様子を見ていると朝から吐き気を伴う下痢症状。結局計画変更。

 大阪の実家に帰るときも再三延期したことがありました。現役時代だとそう簡単に休暇を振り返られず、予定通りの休暇を取りながらどこへも出かけない。私にすれば本当にがっかりですが家族はそれぞれ大騒ぎ。

 妻は息子を病院に、娘は楽しみを奪われ次の計画を要求。最終的に上野動物園などでお茶を濁しました。

 こういう出来事も全て学校時代、就職すればそういうことも少なくなりましたが、会社でいやなことが起きると症状が復活。しかし転職、結婚と人生の大きな出来事の前に今はそうした話も聞かなくなりました。

 医者が言うとおり、精神的なショックから起きた症状だったと思います。自分自身に当てはめても、いやな気分の時は何もしたくない、周囲の気遣う言葉さえ煩わしい。そんな思いに駆られたことが何度もあります。

 気持ちを強く持てとは小さいときから聞かされた言葉です。しかし自分の思ったことがうまくはかどらないとき、なかなかそういう気持ちになれるものでありません。まして人にそれを要求するのは無理があります。

 今の時代のようにたとえ自分自身が気持ちを強くしたところで、リストラの風吹きすさび、自分の将来が不安という中では神経性胃炎がはびこっても仕方ないかもしれません。自力だけではどうしようもないのですから。

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(948)首相と敬語

 どうも気になります。鳩山首相の言葉遣い。

 上流家庭の育ちらしく随所に敬語をお使いになるのは、今までの坊ちゃん首相とちょっと違います。つい最近までは乱暴な言葉を使われる首相もいました。あの人は荒れくれ男に囲まれる世界で育ったからでしょう。

 ところで現首相は、とくにアメリカ政界の人に対して「申し上げました」と記者団に話しているのです。私自身が記者会見現場に立ち会っていませんから流れがわかりませんが、少なくともテレビや新聞報道ではよくこういう表現を使っているのです。

 今度のCOP15後の記者の質問に対しても、隣席に座ったクリントン氏から沖縄問題についての質問に「私からは……と申し上げました」というような発言が新聞に載っていました。

 一方議場ですれ違ったオバマ氏からは「やあ、元気かい」と声をかけられたそうです。この部分は英語で話しかけてきたのでしょうから、翻訳の仕方に問題があるかもしれません。それにしても気軽なかけ声だったということは、記事に書かれた雰囲気から容易に想像できます。

 オバマ氏への返事は書かれていませんが、もし記者がどのように返事されたかと聞けば「元気ですと申し上げました」というようになるのでしょうか。

 要は対等の立場でなく、一歩へりくだった格好に見えるのは私のひがみ根性からなのか。でも気になる一件です。

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(947)Y字路

 山道は怖い。追い剥ぎ(最近この言葉は聞かなくなりました)も怖いが、道に迷うのはもっと怖い。
 
 今の世では通用しないかもしれませんが、追い剥ぎ、強盗の類は相手の要求に応じれば大方命は助かりました。

 道を間違えるのは自己責任というものの命に関わります。そういう意味で未知の土地にY字路があったとして、道標がなければ右が正しいのか左が正しいのか。

 最近の山岳事故、それも中高年の登山やなまじっかの経験者に事故が多いのを見て、ふとY字路を思い出しました。

 本格的な登山経験がなく、せいぜいトレッキング程度しかできない私です。それでもガスに巻かれたときにはせっかくの休暇を利用して登った山でも、真っ先に降りようと言い出します。

 戻った宿ではよくそういう決断がついたと言われるのですが、本能がそうさせるのでしょうか。

 でもY字路で間違えて方角に進んだとき、気がついても元に戻れないことがあります。来るときには気がつかなかった逆Y字路が途中にあるのです。さて先ほどはどっちから登ってきたのか?

 「レバ・タラ」というと肉か魚を連想しますが、こうすればよかった、ああしていたらと後から悔やむときに飛び出す言葉です。でもその時にはもう間に合いません。

 なにか今の内閣、いや自・公時代の内閣も同じですがY字路に迷い込んでいる気がしてなりません。しかも後戻りのできないところまで。

 連立内閣の中で3通りの行く方向があって、自分の進むべき道が決められない民主党、後について行かざるを得ない国民が一番困っているのです。

 政権から退いたときに、あのときこうすレバよかった、こうしタラもっとうまくいったのにといっても後の祭り。現に旧政権担当者はそんな愚痴をこぼしているようですが、現役の時には得てしてそういうことに気づかないものです。

 とにかく国民の命だけは奪わないよう気遣って欲しいと考えているのですが、八方美人は結局一人の親友も生まれないものかもしれません。

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(946)ムラとソン(村) チョウとマチ(町)

 各地を回ってみるといつも使い慣れているつもりの町村名で戸惑うことがママあります。固有名詞の方でなく、その下につく町村をどう読むかです。

 最初に気づいたのは沖縄に行ったとき。たとえば読谷村で「ヨミタンソン」。はじめの読谷は「ヨミタニ」が「ヨミタン」と読むのも土地の読み方が難しいと認識するだけのこと。

 しかし「ムラ」を「ソン」と読ませるのは、長く「ムラ」に慣れた私にとって大きな文化でした。町村合併で本州に村の名は非常に少なくなりました。それでも残っているところの多くは「ムラ」です。

 ところがニュースなどに出てくる本州の村名をアナウンサーは「ソン」と発音しているのです。同じように町は「チョウ」でなく「マチ」。はてそれでは市は「シ」でなく「イチ」かと思えばこれは「シ」のまま。

 アイヌ文化を強く残した北海道の地名が非常に読みづらいのを経験しています。しかしそれは地名の方で行政単位の方ではありません。

 沖縄も琉球王国時代の読みを残しているとすれば、地名や人名が特異なのはわかります。それにしても村のような行政単位の読みが、我々の考える読みと異なっているのには。

 沖縄県内の村は全て「ソン」と読むのであれば、それはそれで北海道のアイヌ名による地名同様自分を納得させられるのですが、九州や信州あたりでも「ソン」が出現すると、故郷の奈良に残る村も「ソン」と読むのが正しいのか?

 でも先日の紀行番組では天川村も十津川村も「ムラ」と発音していました。昨日は仮名文字より漢字の方が意味がわかってよいと書いたのですが、こういう地名は市町村の部分まで含めて仮名文字表記にした方がよいのかもしれません。

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(945)アクセントの違いで品物が違う

 ハシと書けば何を考えますか。カキはどうでしょう。

 漢字は中国からの渡来文字、日本固有の文字は仮名文字だと言語学者が論じています。だから日本人は漢字より仮名文字を使うべきという説です。学者でもない私がこの説に反論を加える気はありません。

 確かに漢字は難しい、仮名文字で押し通せるなら私もそうしたい。こんなことを書いているうちにもパソコンは「幹事は難しい」と打ち出しました。

 仮名文字だと「カンジはムツかしい」となり正確な意味が読み取れません。これが英語だと単語そのものに意味がありますから、アルファベット26文字で文章を作れるのは間違いありません。

 しかし表意文字の漢字はこういうところで力を発揮します。

 しかし面白いもので口に出す言葉は文字と違い、アクセントの違いで意味を持たせています。結局いろは48文字であの多すぎる漢字を上回る力を持っているのです。

 逆に言えば地方によりアクセントが違うのが困ることにもなります。冒頭の「ハシ」は橋、端、箸という漢字を当てはめることで意味がわかりますが、関西と関東でその抑揚が違うため東京で最初に困ったことの一つです。

 「カキ」も柿と牡蠣では全く違うものですが、同じ食べ物いうことでアクセントが違っても会話が成り立ち、その途中で話の食い違いに気づくのです。関西、関東でもそんなことがあるのですから地方の方言が加わればなおひどい間違いが生まれます。

 まして「ぜんざい」のように同じ言葉でも、関西のそれが東京では「田舎汁粉」と言わねば、自分の思っていた品が出てこないとあればなお混乱の度合いが増します。

 関東の「おでん」が関西では「関東炊き」になり、今でこそ全国ブランドになったネバネバの「納豆」も一昔前の関西では「甘納豆」のことでした。うっかり大阪の食料品屋で「納豆」といえば「うちはそんなものあらへん」と断られる始末。「水戸納豆」といえば置いてある店もありました。

 それにしても狭い日本の中でも言葉遣いが違いアクセントが異なる、地方色というのもいいモンだなと感じるさせてくれる事柄でもあります。

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(944)ラ抜き言葉

 耳障りな変な言葉が標準語になっています。

 小さいときからラジオ放送は標準語だと教えられ、学校でもラジオを聞く時間がありました。その当時に第2放送というのがあったかどうか記憶がはっきりしませんが、学校放送という時間があり、国語や理科の説明はラジオを聞かされたように覚えています。

 社会人になった頃でもNHKはアナウンス事典(正確な名称は忘れましたが)を用意し、用語とアクセントに気を遣っていました。

 今はアナウンサーより方言を使うドラマ出演者の方がアクセントなどに気を遣っているようです。とくにインタービュー番組なんかは相手に釣り込まれるのかアナウンサーが変な言葉遣いをしています。

 かつて「(120)関東と関西」でも触れたように東京の車中で関西訛りの話を聞くと振り返って見られたものでした。今では関西訛りも東北弁も乗客は一切無視。外国語を聞いても誰もその人を見ようともしません。

 どこの言葉であろうと東京では標準語になってしまったかのようです。そもそも寄り合い所帯の東京です。なぜ東京の、しかも山の手言葉が標準語の基準になってしまったのか。

 もし日本の中心が京都のままであれば、あのおっとりした京言葉が標準語になっていたかも。ニュースが京言葉で語られると、世の中がいっぺんに明るくなったかのように感じられるかもしれません。

 地方の言葉はそれなりに土地柄を表し、ユーモアを感じさせます。しかし最近の若い人たちが使う変な省略語や隠語のようなものは頂けません。

 その中でも気になるのは「ラ抜き言葉」です。これを聞くと頭の中がいつまでも木の枝が引っかかっているようで。

 それなのにこの頃のアナウンサーは平気でそんな用語を使っています。「ラ」のあるなしで受け身であるかないかの立場が逆転することだってあるのです。

 ましてAKIBA族などの取材でリポーターまでが若者言葉を多用する場面を見かけます。こういうのは民放の方にはるかに多いのですが、せめてアナウンサーやリポーターは正しい言葉に言い直すように努めて欲しい。

 最近は聴覚障害者のためか、画面で語られた場面をすぐテロップで流しますが、たとえインタビューを受けた若者が自分たちの言葉で語っても、一般的な用語で書いて欲しいと思います。

 放送で流される言葉は標準語と思い込んでいる人たちがいるのですから。

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(943)多数の横暴と少数のごり押し

 現在の日本は民主主義の世の中、もはや独裁政治の時代でないはずです。

 戦後民主主義という言葉がもてはやされた頃、学校で教わったのは多数決と少数の意見に耳を傾けると言うことでした。

 教育方針もころころと変わり、今は我々が習った定義と違ってきたのでしょう。自分たちの年代から見ると多数の横暴と少数のごり押しが強く感じられます。

 それを民主主義と教えているのかどうか。そういう現代教育を受けてきた国会議員の先生方が次の世代を教える立場です。

 昨日600人を超える訪中団が出発したそうです。新聞、テレビはこの費用が民主党から出たのか国費なのか明らかにしていません。

 どちらにしても今の時期、莫大な無駄遣いではないですか。新人議員に海外を見せるのも勉強と言いますが、そんなものは勉学心に富んだ議員であれば自費で勉強して欲しい。

 当選してから勉強とは一般庶民に考えられないこと。しかも民主主義とはあまり関係なさそうな国の視察はいかがなものか。

 今新人議員に望むのは数の横暴でも少数のごり押しでもない真の民主主義を学んで欲しいと思います。

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